
解説:岡田 安樹浩 (1683文字)
更新日:2009年6月1日
解説:岡田 安樹浩 (1683文字)
アントニン・(レオポルト)・ドヴォルザーク(アントニーン・ドヴォ[ル]ジャーク)は1841年9月8日、プラハの北方約30キロに位置するヴルタヴァ(ドイツ名:モルダウ)川沿いのネラホゼヴェス村(ドイツ名:ミュールハウゼン・アン・デア・モルダウ)に生まれた。彼の姓名には発音の非常に難しいハーチェク(vの記号)をもったRの音があり、これは[r]と[z]の音をほぼ同時に発音する。このような事情から、日本語におけるカナ表記も常に一定していない。本事典では「ドヴォルザーク」の表記で統一する。
ドヴォルザークはしばしば「国民楽派」の作曲家として音楽史に位置づけられているが、これはとりわけオペラのジャンルにおいてのことである。もちろん、彼の諸作品における民謡風の旋律や、さまざまな舞曲のスタイルを用いた作風にもこのことはいえるが、若かりし頃のドヴォルザークは、まずワーグナーに傾倒した。しかしそのスタイルでは成功を得られず、オペラ「王様と炭焼き」の上演取り下げを機に、彼は徐々にその影響を脱してゆく。
彼の名が祖国を超えて広まったのは、ひとえにブラームスの貢献によるところが大きい。オーストリア国家奨学金に応募したドヴォルザークの作品が、審査委員の一人であったブラームスの目に留まったことがそのきっかけである。
ドヴォルザークのいくつかの作品は、1873年頃からプラハの出版社スタリーから出版されていたが、ブラームスのとりなしによって1878年にベルリンの出版社ジムロックから彼の作品が出版されるようになると、彼の作品の演奏機会は国外にて飛躍的に増した。
ドヴォルザークの作品は、海を越えたイギリスの演奏会でも取り上げられるようになり、とりわけ合唱曲はこの国でもっとも歓迎された。このことは、地理的に近いロシアでは、チャイコフスキーの招聘によってドヴォルザークがその地を訪れても、彼の作品はそれまでまったくと言ってよいほど知られておらず、まったく歓迎されなかったこととは対照的である。
1891年6月、ドヴォルザークはニューヨークのナショナル音楽院の院長のポストを打診され、これを引き受けた。ニューヨーク滞在時に作曲された交響曲第9番「新世界から」は、古今東西の最も有名な交響曲の1つとなったが、この作品の初演を指揮したアントン・ザイドルは、ワーグナーと親交の深い人物であり、アメリカでワーグナー作品の上演を積極的に行った人物であり、彼との交流によってドヴォルザークに再びワーグナーへの傾倒が、とりわけオペラの作曲と改作の中にみられるようになった。
祖国に帰ったドヴォルザークは数々の賞を授与され、その栄誉を讃えられた。演奏会の指揮台にたち、新作の交響詩を作曲しつつ、彼はますますオペラの作曲にのめりこんでゆく。ワーグナーの語法に接近したオペラ「ルサルカ」はこの時期の作品である。
1904年5月1日、プラハにて没したこの作曲家は、多くの文化人たちが眠るヴィシェフラド地区の墓地に埋葬された。現在この墓地には、作家のカレル・チャペック、作曲家のベトルジハ・スメタナ、指揮者のラファエル・クーベリクなどが眠っている。
ドヴォルザークのピアノのための作品は、そのほとんどが小品であり、とりわけ舞曲スタイルの作品は、作品の量においても、内容の質の高さにおいても群を抜いていると言ってよいだろう。彼のピアノ曲の多くは、ジムロック社からの依頼で作曲されたもので、有名な「スラヴ舞曲」もこの出版社からの要請に応じて作曲したものである。ドヴォルザークは、ジムロック社と報酬や名前の表記等をめぐってもめたが、ドヴォルザークの数々のピアノ曲の成立に関与したこの出版社の功績と、仲介したブラームスの存在を忘れてはなるまい。
小品が目立つピアノ作品の中で、規模の面でも内容の面でも際立っているのは「主題と変奏」である。この作品には、ベートーヴェンのピアノ・ソナタOp.26の強い影響が見て取れる。また、クライスラーの編曲で有名な「フモレスケ」は、ピアノ独奏用の作品「フモレスカ」の第7曲として作曲されたものである。
作品(42)
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