
解説:中西 充弥 (1184文字)
更新日:2015年4月27日
解説:中西 充弥 (1184文字)
サン=サーンスという作曲家に関して、《動物の謝肉祭》や「オルガン付き」の《交響曲》第3番、といった有名な作品を除いては、彼の長い生涯とその間絶え間なく書かれた膨大な作品についてはほとんど一般には知られていないであろう。そのような乏しい情報の中で、噂が独り歩きすることはよくある。ピアノを弾かれる方で、少しサン=サーンスに詳しい方ならば、彼がアルフレッド・コルトーに向かって、辛辣な言葉をかけたという噂を御存知であろう。コンセルヴァトワールでのソルフェージュのクラスの視察に訪れたサン=サーンスがコルトーに向かって「君の楽器は」と尋ねたところ、コルトーが「ピアノです」と答えたので、「君、冗談言っちゃいかんよ」と言ったというのである。1915年生まれのアメリカ人音楽批評家の著作に載っているエピソードであるが、この事件を評価するには、コルトーがスイスからパリにやって来たものの、最初のコンセルヴァトワール(パリ国立音楽院)の入学試験に落ちた、という事実を忘れないで頂きたい。とはいえ、仮にこれが単なる噂であったとしても、サン=サーンスならば、さもありなん、というエピソードなのである。まず、彼は辛辣な批評家であった、有体に言えばあまり性格がよろしくなかったのであるが、本人の名誉のためにそれはさておき、彼は一流のピアニストであったのである。サン=サーンスは20代の4年間を除いて、教職に就いていない。オルガニストの職も、42歳でマドレーヌ教会のポストをテオドール・デュボワに譲っている。その理由は世界各地への演奏旅行のスケジュールに支障をきたすからであった。すなわち、彼は作曲活動と演奏活動によって生計を立てていたのであるが、後に音楽アカデミーの座を手に入れるとはいえ、教職と教会オルガニストという当時のフランスにおける作曲家の一般的な安定収入の道を自ら断ったというのは、彼の華々しい音楽活動を裏付けるものである。というわけで、彼は生涯演奏旅行で世界を駆けまわったのであるが、それはつまり、彼がピアニストとして練習を欠かさなかったことを意味する。コルトーも彼の著作『フランス・ピアノ音楽』において、「指の訓練に毎日二時間を費やした」というエピソードを伝えている。よって、サン=サーンスがコルトーに対して、厳しい批評を投げかけたからと言って、決していわれの無いものではなく、彼自身百戦錬磨のプロのピアニストとしてコンチェルトを自作自演するなどのキャリアを積んだ自負があるからこその発言なのである。そして、そんな彼がピアノのためのエチュードを作曲し、曲は超絶技巧的で難易度が高い、というのは至極当然のことであった。
※連載《旅するピアニスト サン=サーンス》へ
解説 : 菊池 朋子
(581 文字)
更新日:2010年1月1日
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解説 : 菊池 朋子 (581 文字)
作曲家としてのみならず、文筆家としても多岐にわたる文章を発表していたサン=サーンスは、幅広い分野に対して鋭い興味と洞察力を持っていた。幼い頃からピアノやオルガン演奏では神童と絶賛され各地を演奏して回り、パリ音楽院では演奏、作曲において輝かしい成績を修め、卒業後はオルガニストの職を得る。20代の彼はヴィルトゥオーゾとして絶大な名声を獲得し、ワーグナーにいち早く注目したり当事あまり認められていなかったシューマンを演奏し続けたり、音楽文化に対する独自の見識を実践していた。
一度サンーサーンスが教鞭をとった時の生徒に、フォーレがおり、フォーレとはその後も師弟の関係を超えて深い親交が続いた。そしてビュシーヌ、フランクらとともに国民音楽協会を設立し、フランスの作曲家による新しい音楽の奨励という目的のために、重要かつ練り込んだプログラムの演奏会を行うようになった。
彼のピアノ作品の多くは1870年以降に書かれており、舞曲的要素を取入れたサロン音楽が多かった。それらは17世紀時代のフランス音楽の良さをよみがえらせようとした試みであり、祖国の音楽伝統を再発見したいという彼の意欲であった。新古典主義的な作品や、協奏曲に匹敵するスケールを持つ変奏曲など優れた作品を残したほか、リュリやラモーなどの作品刊行も手がけ、音楽と向き合うその姿勢はのちの作曲家に多大な影響を与えた。
作品(87)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (3)
協奏曲 (5)
管弦楽付き作品 (3)
ピアノ独奏曲 (16)
練習曲 (3)
マズルカ (3)
ワルツ (5)
性格小品 (4)
ピアノ合奏曲 (7)
曲集・小品集 (3)
行進曲 (3)
リダクション/アレンジメント (8)
種々の作品 (17)
室内楽 (4)