《アフリカ幻想曲》、誤訳では決してないが、とは言え、非常に誤解を招きやすいタイトルである。というのも、タイトルの原綴はAfricaであって、フランス語のFantaisie « Afrique »でもFantaisie Africaineでもないからである。 現在、「アフリカ」と我々が聞く時、アフリカ大陸全体を想像されるであろうし、典型的なイメージとして、ラクダに乗った隊列が連なって旅をする砂漠の光景を思い浮かべる人もいれば、草原を駆けて野生動物を観察するサファリパークの光景を思い浮かべる人もいるであろう。従って、わずか十分少々の短い作品において、この概念はあまりに漠然としすぎることがお分かり頂けると思う。
フランス史に詳しい方ならば、フランスが植民地化した北アフリカ地域(マグレブ)のことに気づかれるであろう。更にサン=サーンスに詳しい方なら、彼がこの地域を頻繁に旅行し、《アルジェリア組曲》(1880年)が《アフリカ幻想曲》の前に既に存在していることに気づかれるであろう。実は、このAfricaとはラテン語なのである。アフリカの語源は諸説あってはっきりしないが、「アフリカ」という語が定着するのはローマ帝国時代、Africa terra(アフリカ人の土地)という用法からである。ローマ人が「アフリカ」と呼んだ土地はどこか。カルタゴである。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが負け、ローマの属州となるのであるが、それは現在のチュニジアを中心とした地域であった。
長い前置きになってしまったが、《アフリカ幻想曲》のアフリカとはローマ時代のラテン語による狭義のアフリカを指し、現代語に訳すならば、《北アフリカ幻想曲》ないしは《チュニジア幻想曲》とした方が聴衆には曲のイメージが掴みやすいであろう。実際、この曲には当時の(フランスの保護領であった)フサイン朝チュニジアの国歌が埋め込まれているのである(デュラン版練習番号14)。
作曲の経緯としては、この曲の献呈先であり、初演時にピアノを弾いたマリー=エメ・ロジェ=ミクロス女史に数年来作品を依頼されていたのだが、母親の死とその喪失感による漂泊の旅の間仕事がはかどらず、1891年3月、セイロン島への旅行の後、エジプトのカイロにてようやく作曲された。出版社のオーギュスト・デュランに宛てた手紙の中で、作曲者はこの曲が《アルジェリア組曲》の「支店」だと述べている。また、作曲者の言葉を借りると、この作品は「数年来各地で採譜したアフリカの音楽」、更にチュニジア国歌と「未完に終わったコンチェルトの断片」から成っている。初演は1891年10月25日、エドゥアール・コロンヌの指揮による。
曲は増二度音程が特徴的なアラブ風の旋律がちりばめられる。第一主題はシンコペーションのリズムにより聴衆を引き込み、この主題によって、第二(練習番号2)、第三(練習番号4)のオアシスの木陰のような抒情的な主題がサンドイッチ状にされた後、水しぶきが跳ねるような第四主題(練習番号9)、スーフィズムの旋舞のような第五主題(練習番号11)のタペストリーにより、途中チュニジア国歌を元にした荘重で幻想的な瞑想を挟みつつ、最後は旋舞の熱狂により締め括られる。
フランス人作曲家によるピアノのための協奏的作品で「アフリカ」といえば、アンドレ・ジョリヴェの協奏曲を思い浮かべる方も多いであろう。サン=サーンスに比べると、リズムや打楽器の用法において、更に研究され、ジョリヴェの独特の作風に取り込まれている。しかし、どちらも植民地時代のただ中において作曲され、植民地主義のレッテルが作品の評価の足を引っ張っている感が否めない。世界地図は各国においてそれぞれの国が中心に近くなるように製作されるように、人間は常に自分を軸に世界を眺めるのであるから、西洋社会にとって、アフリカの玄関、窓口が地中海を挟んだ北アフリカとなるのは歴史の必定であった。当時植民地であったとはいえ、飛行機がなく、船で航海するしかない時代、これほど頻繁に北アフリカを訪れ、この《アフリカ幻想曲》作曲直前にはセイロン島まで足を運んだ大旅行家のサン=サーンスは、当時のフランス人の中では異例の親東洋家であり、知識、経験ともに及ぶ人は少なかったと言ってよい。確かに、サン=サーンスのオリエンタリスムは表層的だとの批判は多いけれども、東洋に行ったこともないのに想像だけで描くのと、実際行ったことはあるけれども、自分の表現手段として取捨選択の上あえて露骨に東洋の素材を用いない、というのは遠目には仕上がりは似ていても、本質は全く異なるということを理解して頂きたい。また、19世紀の聴衆がジョリヴェの協奏曲を仮に聴くことができたとして、理解できたか、ということを考えるとサン=サーンスの節度が理解してもらえるのではなかろうか、と弁護して筆を擱く。