総説
左手のための作品はパウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱による一連の作品が有名であるが、サン=サーンスのエチュードはキャロリーヌ・モンティニー=レモリー(新姓がモンティニー、旧姓がレモリー、再婚後はド・セール夫人、1843-1913)のために1912年に書かれ、献呈されたものである。第一次世界大戦前であるから、当然そこで右腕を負傷したヴィトゲンシュタインのための作品より早く、19世紀のF. カルクブレンナーやCh.-V. アルカン、A.フマガッリといった作曲家の作品と並んで、左手のためのピアノ作品の先駆けの一つである。サン=サーンスは彼女に対して、パラディルの《マンドリナータによるパラフレーズ》(1869)、交響詩《死の舞踏Op.40》(1874)や2度目の結婚の際、《ウェディング・ケーキ》(1885)を献呈しており、若い頃からの忠実な友人の一人であることが分かる。実際、サン=サーンスとの2台ピアノでの共演を含め、長年彼の作品の演奏に頻繁に参加し、普及に貢献してきたのであった。また再婚後、オーストリア国鉄に勤める夫についてウィーンへ活動の場を移してからは、仏墺の音楽交流に尽力し、1886年のサン=サーンスのウィーン滞在等を支援した。そのような彼女が手術の結果右手が不自由になり、左手のための作品の作曲の依頼をしてきたからこそ、サン=サーンスは引き受けたのであった。ちなみに当時彼は77歳、作曲のインスピレーションも枯れてきて意欲もわかず、1月の終わりに慣例の避寒旅行に出発した際は五線紙すら持たなかったが、手の不自由な友人を元気づけられるなら、ということで急遽作曲し、翌2月29日には書き上げた原稿をカイロから発送したのであった。
この作品も作曲動機からみるとサン=サーンスに良くある機会的な作品の一つとみなすことができるのであるが、この機会のおかげで一時期失いかけた作曲への情熱を取り戻し、本人が書簡で述べているように大作オラトリオ《約束の地》(1913)の作曲の原動力となったのであった。また美学的には、左手のためという制限された条件下での作曲が「音を削る」という作曲スタイルとなり、老年の枯淡の境地と合致し、白鳥の歌である管楽器のためのソナタ群に連なる作品を生み出すこととなった。ちなみに、このカイロへの旅行中、このエチュードの作曲と同時並行で行っていたことは詩作であったが、「鏡」というタイトルの長い韻文の物語で、何と日本を主題にしたものであった。しかも手遊びに書いたものではなく、説話集の一編として執筆を依頼された「仕事」であった。当時フランスにおいてはジャポニスムが流行していたが、彼は浮世絵といった表層上の日本よりも、伝統的な日本文化の純朴な精神性に憧れていたようである。既に1910年に訪れたロンドンでの日英博覧会では、簡潔な筆さばきで対象の特徴を的確につかむ日本美術に感銘を受けたと書簡に書き残しており、ここでは詳しく論を進められないが、それまでのサン=サーンスの日本への関心の高さから見て、このエチュードは日本文化の影響が美学的な面で彼の創作活動の中で昇華された好例であると考えられる。サン=サーンスのピアノ音楽としては1920年の《6つのフーガ》Op.161と並んで彼の到達点であろう。
各曲解説
このエチュードは6曲からなる。
前奏曲:アレグレット・モデラート、ト長調、四分の三拍子。J.S.バッハ等の古典組曲に範をとったこのエチュード集も前奏曲で幕開けする。音が切り詰められ、線的な音楽が多い中、分散和音を多用し、和声の層の厚みで堂々とした風格を漂わせている。
フーガのように:アレグロ・ノン・トロッポ、ト長調、四分の二拍子。サン=サーンスの他のエチュードにおいてもフーガに対する偏愛が見られるが、このタイトルはイタリア語でAlla fugaとあり、バッハの影響よりもベートーヴェンの「エロイカ変奏曲」のフーガに対し敬意を払っているのかもしれない。二拍子で行進曲風の軽快な音楽である。
無窮動:アレグレット、ホ長調、八分の三拍子。このタイトルもMoto perpetuoとイタリア語であり、パガニーニの同名曲を念頭に置いていたかもしれない。ただ、やみくもに早く弾けばいいという訳ではなく、「常にレガートで」「優しく穏やかに、あまり早くなくとても優雅に」と指定され、さらに冒頭では括弧付きで「ペダルを使わずに」とあり、まさに「ジュ・ぺルレ(真珠飾りのような音のする演奏)」のための練習曲である。
ブレー:モルト・アレグロ、ト短調、二分の二拍子。〈フーガのように〉の同主調で同じ4度の跳躍で始まり、〈無窮動〉を挟んで対を成す快活な踊りである。中間部とコーダはト長調となり、ウナ・コルダの指定で、部分全体を通して奏されるペダル音上に流れるような旋律が歌われる。ブレーは元々オーヴェルニュ地方等を起源とする舞曲であるから、バグパイプやハーディ・ガーディのドローン音の名残ともとらえられる。
エレジー:ポコ・アダージョ、変ニ長調、四分の三拍子。古典組曲風のエチュード集の中で異彩を放つロマン派らしい性格的小品である。〈前奏曲〉と並んで分散和音による和声の層の厚い、情感あふれる音楽であり、このエチュード集の中でサン=サーンスが一番訴えたかった音楽なのであろう。拡大する和声によりクレッシェンドと緊張感を演出して哀切の冒頭主題を準備するところは、一手による切り詰められた音のおかげでより緊迫した劇的な効果を生み出している。中間部はイ長調からヘ長調へと転調し、思いを断ち切るかのような決然とした表情になり、元の主題が回帰する。
ジーグ:プレスト、ト長調、八分の三拍子。J.S.バッハ等の例に倣い、ジーグで締めくくられる。前曲との対比を付けるために〈無窮動〉に近い一筆書きの音楽であり、一陣の風がさっと通り過ぎていくように軽快な音楽が駆け抜けていく。