ヴァイオリニストのエドゥアルド・レメーニ(1830-1898)の伴奏者としてドイツ演奏旅行を行った際、ロマの民族音楽について知ることとなったブラームスは、これをハンガリーの民族音楽であると思い、採譜・編曲したものを出版しようと考えた。4手ピアノのために編まれたこの曲集のうち、まず6曲が1867年にジムロック社から出版の試みがなされたが、この時は失敗した。2年後の1869年に、2集からなる第1-10番が出版されて好評を得た。
後の1880年には更に2集からなる第11-21番も出版され、現在知られる21曲からなる「ハンガリー舞曲集」となった。1872年には、第1-10番がブラームス自身によって独奏用に編曲され、出版されている(「10のハンガリー舞曲」参照)。
オーケストラでもしばしば演奏されるが、ブラームスにってオーケストレイションされたのは第1、3、10番のみで、これは1874年2月5日にライプツィヒでのブラームス指揮による演奏会のためのものである。
その他の番号のオーケストレイションはさまざまな指揮者や作曲家が手がけているが、特に注目に値するのは第17-21番のドヴォルザーク(1841-1904)によるものだろう。
また、ヴァイオリニストでブラームスの友人でもあったヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)がヴァイオリンとピアノのデュオに編曲しており、同じくヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(1875-1962)は第17番をデュオ編曲しているものがよく知られている。
「ハンガリー舞曲集」を巡って、ブラームスがレメーニと訴訟沙汰になったことは有名である。近代的な著作権の概念が確立していなかった時代においても、作品の権利についての意識が既に作曲家たちの中にあったことが良くわかる。なおこの訴訟については、当曲集が「創作」ではなく「編曲」としされていたことが幸いし、ブラームスが勝訴した。