故郷ハンブルクで評価されず、失望したブラームスは、1862年、ウィーンにうつり住むことになった。全16曲からなるこのワルツ集作品39は、ウィーン生活3年目にあたる、1865年1月に作曲された。ブラームスはこれらのワルツをはじめはピアノ連弾用として作曲した。また、ほぼ並行して、ピアノ独奏用に編曲し、さらに演奏技巧的にやさしい子ども用のものまで書いているし、のちに二台のピアノ用の編曲も行った。
独奏用のものは、音楽評論家のハンスリックに献呈した。ハンスリックはこのワルツ集をうけとり、「真面目で無口なブラームス、あのシューマンの弟子で、北ドイツのプレテスタントで、シューマンのように非世俗的な男がワルツを書いた。」と語り、驚きを示した。
当時ウィーンでは、ヨハン・シュトラウスが「ワルツ王」 と呼ばれ、全盛をきわめており、ワルツは、シュトラウス一家の繁栄で、完全に娯楽的な、踊るための音楽と考えられていた。そこで、絶対音楽の推進者とされていたブラームスが、家庭的で気楽なワルツを作曲したのである。
シュトラウスのワルツに比べると、ブラームスのワルツは規模の小さな小品であり、性格的にも、素朴で、ワルツの前身であるレントラーに近い味わいをもっているといえるだろう。ブラームスはこのワルツ作曲をきっかけに、四重奏を伴う「愛の歌」「新・愛の歌」、ワルツのリズムをもつ子守歌などを多くのワルツを作曲した。