解説:湯淺 莉留 (6078文字)
更新日:2025年10月16日
解説:湯淺 莉留 (6078文字)
ジョン・フィールド John Field(1782~1837)は、アイルランド出身のピアニスト兼作曲家であり、19世紀前半にロシアを主要な拠点として活躍した人物である。 フィールドと言えば、フレデリック・ショパン以前にピアノ独奏のための夜想曲を書いた先駆的な作曲家として知られており、このイメージは、彼の死後、かの有名なフランツ・リストが編纂した「夜想曲集」によって決定的なものとなった。しかし、フィールドは本来、ピアニスト、作曲家、ピアノ教師として、より多角的にその功績が評価されるべき人物である。本項では、彼の生涯を辿りながら、その多岐にわたる活躍を明らかにする。
ダブリンの音楽一家の少年がピアニストになるまで(1782〜1792)
1782年7月26日、ジョン・フィールドは、アイルランドのダブリンで生まれた。父は劇場のヴァイオリニスト、祖父は教会のオルガニストであり、フィールドは彼らより音楽の手ほどきを受けて育った。
1792年、フィールドは、イタリア人音楽家トンマーゾ・ジョルダーニの主催する演奏会で、ピアニストとしてデビューすることになった。ジョルダーニは、歌曲《愛しい人よ Caro mio ben》の作曲者として今日では有名だが、彼がイギリスとアイルランドを主要な活動拠点とし、晩年にダブリンの音楽界を牽引していたことについてはあまり知られていない。3月24日、ジョルダーニはパリのコンセール・スピリチュエル(公開演奏会の一種)を模した演奏会をダブリンで開催し、フィールドはここで、クルムフォルツ夫人作曲の難しいハープ協奏曲をピアノで演奏した。3月27日の新聞では、フィールドの演奏が驚きをもって迎えられたことが伝えられた。
ロンドンでの修業時代(1793〜1802)
1793年、父の仕事の都合で、フィールド一家は活動拠点をイギリスのロンドンに移した。フィールドは新天地で、イタリア人音楽家ムツィオ・クレメンティに師事することになる。ダブリン時代と同様、イタリア人音楽家が若きフィールドを音楽界へと導くことになったのである。フィールドは当初よりピアニストとして活動しており、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンはロンドン滞在期間(1794~1795)に、フィールドについて「ピアノを非常に上手に弾く」と書き残した。また、同じ頃、師クレメンティが後に経営の中心人物となる楽譜出版・楽器製作会社、ロングマン&ブロデリップ社より、フィールドの初期のロンドや変奏曲が次々と出版された。
1799年2月7日、フィールドは自作のピアノ協奏曲第1番(H. 27)を演奏し、ピアニストとしても作曲家としても大きく躍進した。1801年には、彼にとって公式の「Op. 1」に相当するピアノ・ソナタ第1~3番(H. 8)が師クレメンティの経営する会社より出版された。フィールドは、これら3作品を師に献呈している。師の影響下で、フィールドは新進気鋭のピアニスト兼作曲家として徐々に実力を発揮するようになったのである。
ヨーロッパ各地への演奏旅行(1802)
1802年、フィールドは師クレメンティと共に、ヨーロッパ各地へ演奏旅行に赴くことになる。師弟が最初に目指したのは、フランスのパリであった。ロンドンの定期刊行物におけるクレメンティを特集した記事(1820)では、フィールドが「正確さ」と「比類なき趣味」をもってヨハン・ゼバスティアン・バッハのフーガ数作品を演奏したことが明らかになっている。その後もフィールドは、折に触れて「バッハ弾き」として活躍することになる。
師弟は続いてヴィーンを訪れ、フィールドは短い間だが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作曲の師匠のひとりとして知られる大家ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーのもとで、対位法を教わった。クレメンティによると、フィールドは当初、この大家に師事することを希望したが、ヴィーンで対位法の勉強を続けることよりも師クレメンティと行動を共にすることを望むようになったという。その結果、二人はヴィーンを去り、ロシアのサンクトペテルブルクを目指す長い旅に出た。
サンクトペテルブルクでのデビュー(1802~1805)
ドイツ人ヴァイオリニスト兼作曲家のルイ・シュポーアの回想から、フィールドがサンクトペテルブルクにて、師クレメンティの影響下でピアノを宣伝するセールスマンとしての役割を担ったことが明らかになっている。師は、フィールドを貴族のパトロンに紹介したのち、*1803年にサンクトペテルブルクを去った。ロシアでの事業拡大は、フィールドに委ねられたのである。
*1803~1804年、フィールドは慌ただしく演奏会に出続けた。*1804年3月にはサンクトペテルブルク・フィルハーモニー協会で自作のピアノ協奏曲第1番(H. 27)を演奏し、公の華々しいデビューを飾った。この演奏会を境に、彼はピアニストとしてロシアで広く知られるようになり、高額なレッスン料でロシアの貴族にピアノを教えるようになった。
*1805年には、サンクトペテルブルクでの成功に飽き足らず、バルト海に面した地域で演奏会に出るなどして、活動の幅を広げるようになった。
モスクワでのデビュー、そしてサンクトペテルブルクとモスクワを往復する二拠点生活へ(1806~1812)
*1806年3月2日、フィールドは初めてモスクワで演奏し、サンクトペテルブルクでのデビューのときと同様に成功を収めた。サンクトペテルブルクとモスクワの両方で仕事の依頼が増え、彼はロシアの2つの主要な都市を往復するようになった。フィールドがサンクトペテルブルクに戻ると、師クレメンティが同地を再び訪れており、作曲に適した環境を整えるために、師はフィールドにピアノを与えた。師はその後もヨーロッパ各地を転々とし、最終的にはロンドンに戻った。
*1807年、フィールドはモスクワを活動拠点とするようになった。当時のモスクワの上流社会にはフランスの言語や芸術が根付いており、フランス人の居住地も存在した。フィールドはロシア国内で育まれたフランス風の文化に惹かれていった。彼はこの頃にフランス人の弟子ペルシュロンと交際するようになり、*1810年には彼女と婚姻関係を結んだ。
*1811年3月、フィールドはサンクトペテルブルクに赴き、演奏会に参加した。翌年の*1812年3月には再びモスクワを活動拠点として演奏会に参加した。*同月14日の演奏会の告知では、妻と共演するということが明記されていた。
フィールドは二拠点生活を通じて、ピアニストとして知名度を上げたのみならず、作曲家としても一歩を踏み出した。とりわけ、ピアノと弦楽四重奏のためのディヴェルティスマン2作品がモスクワで出版されたことは、重大な出来事であった。ディヴェルティスマンのうち、第1番(H. 13)、第2番(H. 14)第1楽章は、いずれもフィールドの死後にリストが編纂した「夜想曲集」に収録されることになる作品の原型であり、初期の室内楽曲が形を変えて後世に残る性格小品となったということがよくわかる。ロシアでの華々しい音楽活動と、結婚。フィールドの生活はこの頃、公私ともに順風満帆であった。
サンクトペテルブルクでの精力的な音楽活動と、前途多難な私生活(1812~1821)
*1812年、フィールドは再びサンクトペテルブルクに戻った。彼がそれまで滞在していたモスクワにはその頃、ナポレオン率いるフランス軍が侵攻していた。サンクトペテルブルクが戦場になることは無かったとは言え、当時の彼は心穏やかならざる時代を過ごしていたことだろう。この頃のフィールドは、妻との言い争いが増えていた。そんなとき、フィールドは、妻と同じくフランス人であるシャルパンティエと出会った。私生活の不安から目をそらすようにして、フィールドは彼女と愛人関係を結ぶようになる。その一方で、ついに「夜想曲」という題のピアノ独奏曲が出版され、フィールドの作曲活動は新たな展開を迎えた。
*1815年4月5日、フィールドは「バッハ弾き」として、クラヴィーア協奏曲を4台のピアノで演奏するという催しに参加する。*同年、彼はオルロフ伯爵から宮廷でピアニストとして働くことを提案されたが、「宮廷は私に向いていませんし、ご機嫌取りをする方法がわかりません」と言って断った。また、この頃、フィールドはドイツのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から自作品を出版することに前向きになった。彼自身の書き込みを含む同社の出版譜の中には、サンクトペテルブルクの出版社のラベルが貼り付けられているものが存在する。そのため、彼がサンクトペテルブルクに滞在しながらブライトコプフ・ウント・ヘルテル社と結びつきを強めていたことが想定される。
一方、私生活においてはこの頃、愛人との間に息子レオン・シャルパンティエが生まれた。*1819年には、妻との間に息子アドリアン・フィールドが生まれたが、ジョンが父親として母子のそばにいられる時間は、そう長くは続かなかった。
モスクワの巨匠(1821~1831)
*1821年、フィールドはモスクワを訪れた。同地での演奏会は、フィールド夫妻が共に姿を現す最後の機会となり、妻は息子アドリアンを連れて夫のもとを去った。フィールドはモスクワにとどまり、後進を指導する機会が増えていく。当時のモスクワでは、平均律クラヴィーア曲集第2巻第1番(BWV 870)のフーガにおいて、フィールドの運指付きの楽譜が音楽雑誌に掲載された。このことから、「バッハ弾き」としてのフィールドのテクニックが教育目的で役立てられていたことは明白である。
*1822年、フィールドは、当時ロシアを訪れていたヨハン・ネポムク・フンメルと出会う。*2月10日、二人はフンメルのソナタを4手連弾で演奏した。その際、フィールドは、フンメルに遠慮なく「そんなに強く叩かないで下さい! Ne tapez pas si fort!」と言った。*同年3月6日には自作のピアノ協奏曲第7番(H. 58)の第1楽章の初演を行い、*翌年には演奏会に愛人との息子レオンも同行させ、ピアノ演奏を披露させた。
フィールドは、*1820~1830年代のモスクワ滞在以前にも、シャルル・マイヤーやミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ等を指導してきたが、この滞在期間に、フィールドはさらに弟子を増やしていった。例えば、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・デュビュークは、*1823年より6年間フィールドに師事した。デュビュークは、*1866〜1872年に初期のモスクワ音楽院でピアノ実技を教えることになる人物であり、ロシアで師フィールドのピアニズムの継承に努めたことで知られている。また、ヨーロッパ各地で活躍したピアニスト兼作曲家アントワーヌ・ド・コンツキも、*1829~1830年にフィールドに師事した。
フィールドは、すっかりロシアで巨匠として知られる存在になり、ロシア国内で活動したドイツ人ピアノ製作者ヨハン・アウグスト・ティシュナーによるイギリス式アクションの楽器を愛用するようになっていた。また、弟子に対してだけではなく、フンメルのような著名なピアニスト兼作曲家に対しても厳しい態度をとり、ピアニズムに関して一切妥協しなかった。しかしながら、フィールドは過度の飲酒により体調を崩し、直腸がんに冒され始めていたため、質の高い診察を受けられるようにモスクワを離れざるを得なくなった。
ヨーロッパ旅行での出会いと別れ、そして晩年のモスクワ滞在へ(1831~1837)
1831年、フィールドはついにモスクワを離れ、レオンとともにイギリスのロンドンを目指した。レオンはこの頃、ピアノのみならず、声楽の才能も示しており、ヨーロッパ旅行の期間中に声楽を専門的に学ぶことになった。フィールドがロンドンに赴くのは30年ぶりであり、ようやく母との再会を果たした。彼はロンドンとマンチェスターで演奏会を開き、フェリックス・メンデルスゾーンやイグナーツ・モシェレスと出会った。その一方で、1832年には師クレメンティと母が亡くなり、フィールドにとって同年は別れの続く一年となった。
1832年、フィールドはフランスのパリに向かった。パリの人々は彼の演奏を楽しみにしており、当時パリに滞在していたかの有名なショパンやリストもその例外ではなかった。アントワーヌ・フランソワ・マルモンテルは、パリ滞在時のフィールドの様子について克明に書き記している(参考:『19世紀ピアニスト列伝』、77頁)。同年12月25日、フィールドはパリ音楽院のホールにて、ピアノ協奏曲第7番(H. 58)を演奏した。このときに彼が演奏したのは、ジャン=アンリ・パープの製作した、下方打弦式アクション(ハンマーが上から弦を打つ機構)のテーブル・グランド・ピアノであり、当時の批評には、スクエア型でありながらグランド・ピアノに匹敵する楽器であったと書かれている。このように、フィールドがクレメンティの影響下を離れてからも滞在地の製作家によるピアノを実演によりセールスする役割を果たしていたことは明白であり、翌年にもパープのサロンで演奏していたことがわかっている。
その後、フィールドは、フランスの様々な都市で演奏し、ベルギー、スイス、イタリアとヨーロッパ各地の演奏会に参加したが、体調が悪化し、1834〜1835年の9か月間、ナポリの病院で療養することになった。このときは幸いにも、ロシア人のパトロンにより救われ、その後はヴィーンに滞在した。フィールドは同地で演奏会に3回出て、夜想曲第14番(H. 60)を作曲した。また、2週間カール・チェルニーの家に滞在したことも判明している。
晩年、フィールドは息子レオンとともにロシアに戻ることができたが、レオンはサンクトペテルブルクでオペラ歌手としての活動に専念するために父のもとを離れた。フィールドはもうひとりの息子アドリアンとモスクワで過ごし、*1836年3月に弟子マイヤーによって企画された最後の演奏会ではヤン・ラディスラフ・ドゥシークの五重奏曲(Op. 41)を弾いた。*1837年1月11日、フィールドは息を引き取った。死因は、*1836年12月にかかった風邪に伴う肺炎であった。弟子デュビュークによると、フィールドは亡くなる前、イギリス人の聖職者からキリスト教の宗派を問われたが、どの宗派にも属していないとし、ついには「私はカルヴァン派 Calvinist ではなく、鍵盤楽器奏者 Claveciniste(直訳:チェンバロ奏者)です」というユーモアに富んだ受け答えをしたという。ピアノのために人生を捧げた、彼らしい最期であったと言えよう。
*当時のロシア領で用いられた旧暦(ユリウス暦)に基づいている。
作品(79)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)
協奏曲 (7)
ピアノ独奏曲
ロンド (17)
練習曲 (3)
幻想曲 (3)
変奏曲 (4)
ノクターン (21)
ピアノ合奏曲
