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タウベルト 1811-1891 Taubert, Wilhelm

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解説:上田 泰史  ( 3052文字 )

更新日:2011年5月13日

今日、日本でタウベルトの名は「タウベルトの子守唄」と呼ばれる子ども向けの歌曲によってかろうじて知られている。1830年代の半ばに出版された《歌曲集》作品27の第5番「子守唄」は、大正時代に大衆歌の一つとして日本語の歌詞と共に紹介され、以後今日まで合唱や重唱で歌い継がれている愛唱歌である。しかし、そのタウベルトについて知る人は殆どいない。

1811年3月23日、ヴィルヘルム・タウベルトはベルリンに誕生した。父は軍事関係の事務職にあったが、以前連隊の楽団に所属していたことがあり、ヴィルヘルムは父の所有していたフルートを吹いて幼い時分より音楽に親しんでいたという。ピアノのレッスンを受け始めたのは8歳の頃からで、最初の教師は後にベルリン大聖堂の合唱隊長となる作曲家アウグスト・ナイトハルト(1793~1861)だった。ピアノを始めた後もフルートとヴァイオリンの練習を怠らなかった。12歳の時にタウベルトはベルリンの著名な作曲家・ピアニスト、ルードヴィヒ・ベルガー(1777~1839)の門を叩く。ベルガーは腕の神経不全のため演奏の舞台から退いていたが、ピアノの名手M. クレメンティ(1752~1832)J. フィールド(1782~1837)との交流を通して磨き上げられたピアノ演奏技法の奥義をF. メンデルスゾーン(1809~1847)A. ヘンゼルト(1814~1889)に伝えた優れた指導者であった。

ベルガーの教えに忠実だったタウベルトの技量は着実に向上し、14歳の時には公開演奏会の舞台に登場するまでになった。音楽的修練に並行してギムナジウムで文学を修めた彼は、大学で更なる勉学に勤しんだ。同じころ、作曲家としての能力に磨きをかけるため、彼は「ドイツのパレストリーナ」と称されたベルンハルト・クライン(1793~1832)に師事し、極めて厳格な音楽書法の指導を受けた。

タウベルトは、ほどなくベルリンの宮廷楽団でコンサート・マスター(1825年からは音楽監督)で著名なヴァイオリニストのカール・メーザー(1774~1851)のサロンに出入りするようになる。メーザーはウィーン滞在時にハイドンベートーヴェンの作品を演奏して作曲者本人から賞賛を受けた名手で、とりわけベートーヴェン作品の守護者として知られていた。タウベルトはこのサロンでベートーヴェンやモーツァルトの協奏曲やトリオを演奏し、参会者を魅了、優れた音楽家として認識されるようになる。1828年、ポモジェ、フランクフルトを旅行し成功を収め、彼の名声は次第に高まっていく。ピアニストとしての活躍で彼の下には優れた弟子たちが集まった。中でもテオドール・クッラーク(1818~1882)、アレクサンドル・フェスカ(1820~1849)は後に著名なヴィルトゥオーゾとなり多くの作品を出版した。

彼が作曲家としてのキャリアを開始するのは1830年のことである。この年、タウベルトはヴァイオリンとピアノのための《大二重奏曲》作品1を皮切りに歌曲、ピアノ曲を次々に出版し始めた。《仮面舞踏会》作品14-2、《ピアノ・ソナタ》作品20といった初期のピアノ曲ではベートーヴェン時代の古典的スタイルが踏襲されているが、そこにはすでに楽曲を統制する優れた形式感覚、特有のシンフォニックな書法が顕著である。彼はやがて創作領域を大規模作品へと拡大する。1831年、彼の《交響曲 第1番》作品31はメーザーの取り持つ定期演奏会で上演され、翌年にはオペラも成功も成功させ、タウベルトは一躍新進気鋭の作曲家として注目を集めるようになった。

彼は創作の手を休めることなく、1833年にライプツィヒで《ピアノ協奏曲》作品18を披露、続いて足を運んだドレスデンでは劇の付随音楽が上演された。波に乗ったタウベルトは翌年、ベルリン宮廷楽団の演奏会で《放浪者》を成功させる。この頃から彼は自ら指揮台に立つようになり、オーケストラを的確に操る彼の技量はメンデルスゾーンの惜しみない賛辞を受けた。1830年代の中ごろ、タウベルトは著名な歌手の妹と結婚、イギリス、スコットランド、オランダ、ライン地方を旅行し、その印象は《スコットランドの想い出-8つの幻想曲》作品30や《ピアノ三重奏》作品32に結実する。この時期、ピアノ界を覆う過熱したピアノ音楽の流行は、新しいピアノ音楽のスタイルへとタウベルトの関心を導いた。《12の演奏会用練習曲》作品40(1838)、クララ・ヴィーク(のちのシューマン夫人)に捧げられた《鐘―協奏的練習曲》作品41(1839)は30年後半の「エチュード熱」を反映する作品であり、後者はヒット作として広く親しまれた。

1840年、新プロイセン王の座に就いたフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ベルリンの文化的求心力を強化するために、指導的な音楽家を必要としていた。白羽の矢が立ったのは当時国際的な名声を得ていたメンデルスゾーンだったが、彼は既に活動拠点ライプツィヒでゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者という地位にあった上、ライプツィ音楽院創設など多くの優先させるべき計画があった。国王は一定期間メンデルスゾーンにプロイセン音楽総監督の仕事を請け負わせたのち、彼の意向を尊重して長期間ベルリンで活動することができ、かつ同地の音楽文化興隆に資する音楽家として、タウベルトを重用するようになる。タウベルトはプロイセン音楽総監督に就任したJ.マイアベーア(1791~1864) の采配下、1842年にベルリン王立劇場の指揮者に就任、自ら作曲したオペラ《侯爵と泥棒》を上演し成功を収めた。さらに同年、宮廷楽団の指揮者(69年以降は主席楽長)を兼任することになったタウベルトは1883年まで約40年間、オーケストラの指揮と作曲に力を注いだ。45年頃にマイアベーアがベルリンを離れてから数年間、彼は一時的にプロイセン音楽総監督の役職も務めている。

ベルリン音楽界の中心的人物となった彼は、王の祝典、オペラ座創立百周年など、公的な式典のためにカンタータ作曲を依頼され多忙な音楽生活を送るようになる。だが宮廷楽団の指揮者の地位に就いたことで容易に自作品の上演機会が得られるのは非常に大きなメリットだった。1846年、宮廷楽団によって上演された《交響曲 第2番》ヘ長調(プロイセン王女に献呈)は面目躍如たる成功をもたらした。この曲はライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団でも作曲者の指揮で上演された。50年代には《交響曲 第3番》作品80(1852)、王立楽団創立百周年に際して演奏された《交響曲 第4番》作品113が上演された。

彼はシェイクスピアの戯曲による《マクベス》作品133(1857年初演)、同じくシェイクスピアの『十二夜』にもとづく《シザーリオ》作品188(1874年初演)をはじめとするオペラ、ミュンヘンで上演された劇付随音楽《テンペスト》、その他4曲の弦楽四重奏、非常に多くの歌曲集とピアノ曲を書き続けた。現在作品番号にして205番まで彼の作品が確認されているが、200番台は既に晩年を迎えた1886年以降の作である。タウベルトは1891年、79歳でベルリンに没した。倦むことなく生涯あらゆるジャンルを手掛け、ベルリンの音楽文化活動に多大な貢献をした下にも拘らず、彼の名は今では殆ど語られることがない。幾つかの歌曲は今日でも時折演奏されるが、ピアノ作品の出版はほぼ全滅状態にある。

執筆者: 上田 泰史 
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解説 : 宮本 優美 (114文字)

更新日:2007年5月1日
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