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ヘンゼルト 1814-1889 Henselt, Adolf

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  • 解説:上田 泰史  (2293文字)

  • 更新日:2018年3月12日
  • チェルニー(1791~1875)モシェレス(1794~1870)ベルティーニ(1798~1876)、シャルル・マイヤー(1799~1862)らに代表される1790年世代が、概してベートーヴェン(1770~1827)以前に確立された形式や書法と新しいピアノの演奏技巧を高度に融合させることを目指したのに対し、ショパン(1810~1849)を筆頭とする1810年世代のピアニスト兼作曲家たちは息の長い歌唱的な旋律、大胆な転調による色彩の変化などを導入しながら、それぞれに新しいピアノ音楽の可能性を探っていた。ヘンゼルトはこの1810年世代を代表するドイツのヴィルトゥオーゾである。ヘンゼルトは1814年5月9日、バイエルン王国の街シュヴァーバッハで染物業者の家に生まれた。ヘンゼルト一家はアドルフが生まれて数年後ミュンヘンに移住し、同地で彼の音楽教育が始まった。地元の教師からヴァイオリンの手ほどきを受けたのちピアノを始め、1826年からゲハイムラーティン・フォン・フラット婦人という名の卓越した音楽愛好家のもとでピアノと和声を学んだ。1832年、この婦人の下での勉強が終わるころ、バイエルン王ルードヴィヒ1世は彼に奨学金を与え、ヘンゼルトをかつてのモーツァルトの生徒で同時最も著名なピアニスト兼作曲家だったJ.N.フンメルの下に送った。 ヴァイマルでのフンメルの指導は一年足らずで終わったが、彼は磨きのかかった腕でミュンヘンの公開演奏会に臨み成功を収めた。だがこの成功は彼に野心を起こさせるどころか、更なる勉強意欲を掻き立て、今度はウィーンの著名なオルガニストで極めて厳格な音楽理論家・作曲教師として知られていたジモン・ゼヒター(1788~1867)の門を叩き1834年まで彼の指導を仰いだ。作曲の勉強のみならず、自分に厳しいヘンゼルトは続く2年間、自宅に引きこもって徹底的にピアノの腕を磨いたが、過度の練習のため健康を害し療養にでなければならないことさえあった。1836年、彼はベルリンで演奏会を開き群衆の喝采を浴びたものの、生来内気な性格をどうしても拭いさることができず、大衆の前では極度の上がり症に苦しんだ。それゆえ彼は演奏会を好まず、専ら知人のサロンで行われる私的なソワレにおいて彼の評判は高まっていった。

    ヘンゼルトが初期作品を出版し始めたのはちょうどこの30年代後半のことで、《12の演奏会用性格的練習曲》作品2やその姉妹作《12のサロン用練習曲》作品5(1838)、《二つのノクターン》作品6(1839)は彼のピアノ演奏技術のあくなき探求とほとばしる着想の幸福な結実である。  ヴァイマル、ドレスデン、ベルリンなどを経て1838年、ヘンゼルトはロシアのサンクトペテルブルクに姿を見せた。フランツ・リストのような「若手」ヴィルトゥオーゾたちを知らないこの都市で、ヘンゼルトは評判を勝ち取り、新しいピアニズムの奥義を知ろうと教えを請う人々が彼のもとに集まった。この地に定住する決意を固めた彼は、やがて法学校でピアノの教職を手にし、1848年まで教鞭をとる。その間、42年と43年にリストが、翌年には以前から知己を得ていたシューマン夫妻がこの街を訪れ友好を深めた。リストはロシアを離れたのちもヘンゼルトの卓越した能力を記憶にとどめ、《大独奏協奏曲》をヘンゼルトに捧げた。だがヘンゼルトはこの曲の演奏は困難であるといささか面喰ったような手紙をリストに宛てている。とはいえヘンゼルトが比類なきピアノの達人であったことは《ピアノ協奏曲》作品16(1847)を見れば明らかである。

    1850年代の初め、彼は自身の内気な性格を克服したと思えるようになったのか、演奏旅行に出発し、フランス、ドイツ、イギリスを回った。演奏旅行の充実は同時に作曲の充実ももたらした。50年代前半には幾つかの気の利いたピアノ作品が書かれたが、とりわけ《ピアノ三重奏》作品24(1851)、《バラード》作品31(1854)が大規模作品を統制する高度な作曲技量を示している。ロシア帰国後53年に幾つかの演奏会を行ったのち、ヘンゼルトは公開演奏会に姿を見せることは殆どなくなった。というのも、彼は複数の学校における監察官や教員の仕事に忙殺されていた上に、また一方ではアントン・ルビンシテインら若きロシア・ピアニズムの旗手たちが人々の注目をさらうようになっていたからである。

    ロシアにおける彼のピアノ教授としての声望は非常に高く、1861年にはサンクトペテルブルクのみならずモスクワの学校教育にも携わる義務を負わされるようになった。さらに翌年、ニコライ・ルービンシテインによってサンクトペテルブルク音楽院が開かれ、ここでも教鞭をとるようになった。ヘンゼルトは生涯ロシアでピアノ教育に従事したが、にもかかわらず彼のロシア・ピアニズム発展への貢献は今日あまり顧みられることがない。後に「ロシア5人組」の中核を担うバラキレフ(1837~1910)はとりわけ若い時期にヘンゼルトから少なからぬ感化を受け《庭で 牧歌―練習曲》を彼に献呈した。教育者としてのヘンゼルトは、レッスンの傍らクレメンティ、フンメル、ベートーヴェン、ウェーバー、ショパンらの作品を校訂し出版した。これらの「古典曲」編集の仕事が、サンクトペテルブルクなど都市部の愛好家に与えた教育的影響は相当に大きかったに違いない。ヘンゼルトは1889年、現ポーランド領のバード・ヴァルムブリュンで75歳の生涯を閉じた。そこは彼が1837年に妻と結婚した想い出深い土地であった。

    執筆者: 上田 泰史 
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    作品(58)

    ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (2)

    協奏曲 (1)

    ピアノ協奏曲 Op.16 ピアノ協奏曲 ヘ短調

    調:ヘ短調  総演奏時間:30分00秒 

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    ピアノ独奏曲 (22)

    ロンド (1)

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    バラード (1)

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    スケルツォ (1)

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    ラプソディー (1)

    狂詩曲 Op.4 狂詩曲 ヘ短調

    調:ヘ短調  総演奏時間:2分20秒 

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    トッカータ (1)

    即興曲 (4)

    即興曲 第1番 Op.7 即興曲 第1番 ハ短調

    調:ハ短調  総演奏時間:1分10秒 

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    ワルツ (3)

    2つの小ワルツ Op.28 2つの小ワルツ

    総演奏時間:6分00秒 

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    憂鬱なワルツ Op.36 憂鬱なワルツ

    総演奏時間:5分30秒 

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    ノクターン (2)

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    無言歌(ロマンス) (8)

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    舟歌 (1)

    子守歌 Op.45 子守歌

    総演奏時間:4分10秒 

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    牧歌 (1)

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    セレナード (1)

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    性格小品 (7)

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    ★ 種々の作品 ★ (1)

    室内楽 (1)

    ★ 種々の作品 ★ (1)

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