レイハ 1770-1836 Reicha, Antoine

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  • 解説:丸山 瑶子 (4185文字)

  • 更新日:2018年3月12日
  • アントニーン・レイハ(アントン・ライヒャ)Anton Reicha/ Antonín Rejcha 経歴  1770年プラハ生まれ。1836年パリ没。ベートーヴェンと同年に生まれた作曲家、音楽理論家で、19世紀初頭のヨーロッパにおいて、理論・教育面で大きな影響力を持った。    1.離郷~ボン宮廷楽団時代(1770~1794)  フランス革命に象徴される激動の時代に生まれたことや、生後まもなく実父が早逝したこともあり、1808年までは各地を転々とする前半生を送った。十代で祖国チェコを離れ、作曲家兼チェリストである叔父のヨーゼフ・レイハJoseph Reicha(のちにベートーヴェンも教えを得ることになる)が第一チェリストを務めるヴァッラーシュタインに移住したのが、レイハの第一の重要な音楽教育の始まりといってよい(1780/81年に移住)。ここでレイハは叔父から、ドイツ語、フランス語、ヴァイオリン、フルート、鍵盤楽器の指導を受ける。1784年に叔父がケルン選帝侯宮廷楽団の楽長として招聘されると、レイハも叔父に伴ってボンの宮廷楽団員(フルートとヴァイオリン)となり、ここでベートーヴェンや、ヴァイオリニストのアンドレアス、チェリストであるベルンハルドのロンベルク兄弟らとの交流が始まる。  レイハは若年期から理論的な事柄に関心を持っており、自伝によれば叔父の意向に反して密かに作曲の学習を始めていた。1789年にはベートーヴェンと共にボン大学に入学し、カント哲学や代数学の講義を受講する。こうした数学への高い関心が理論家としてのレイハのキャリアの素地となったのは間違いない。但し、ボン時代からマールプルクやキルンベルガーの音楽理論書を読んでいたと伝えられているが、この点は確かではない。    2.放浪と出会い(1794~1818)  1794年、フランス軍の侵攻から逃れるため、その他の若い音楽家たちと同様、レイハもボンを離れてヨーロッパ各地を放浪する。ハンブルク、パリなどを巡る中、作曲家として劇場などの定職を得ることには失敗するものの、この転住期間で彼は後のキャリアに重要な経験を得る。一つは音楽家らとの出会いである。中でもヴァイオン奏者兼作曲家のピエール・ロードやピエール・バイヨ、国際的名声を博していた作曲家ルイジ・ケルビーニと親交を結んだことは、後にレイハがベートーヴェンやハイドンにこうした音楽家を紹介する契機となった。またハイドンとの再会は、レイハのヴィーン移住を決定づけるきっかけとなったのではないだろうか。二つ目は理論への傾倒である。この時期のレイハは作曲や作曲指導について理論的に思索を巡らすようになっており、後年《36のフーガTrente six fugue》として出版されることになるフーガの一部を作曲し始めている。ハンブルクで生活費のために行っていた作曲、理論および鍵盤楽器教師としての仕事がそうした体系的な考察姿勢を促したのだろう。    オペラ作曲家として地位を確立するという目的が達成できず、レイハはベートーヴェンとハイドンを訪ねてヴィーンに到着する(正確な年代は不明だが、1800年頃)。ここでレイハは友人でありかつての同僚であるベートーヴェンと同じく、サリエリに師事している(ハイドンとアルブレヒツベルガーに師事したという説もあるが、確証はない)。仕事の方はと言えば、ヴィーンでもオペラでの成功は収められず、その一方でプロイセンからのポストの申し出は断った。かくしてフリーランスの身で過ごしたレイハは、そのあいだ職務に捉われないメリットを活用して重要な器楽作品を書いている。ヴィーン移住前から続けていた理論的な《36のフーガ》はレイハ曰く「全く新しい方法」で書かれており、これがベートーヴェンの憤慨を招き、ベートーヴェン自身が自分の変奏曲作品34、作品35を「新しい道で書いた」と出版社に書き綴るに至ったのはよく知られた逸話である。その他、《変奏技法L’Art de Varier》や一連の弦楽五重奏曲、《死者のためのミサMissa pro defunctis》、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーのバラードに基づくカンタータ《レノーレLenore》などがこの時期の重要作に数えられる(事項参照)。  ヴィーンに入った後、作品の演奏や故郷の母を訪ねるため、レイハはまたもライプツィヒ、プラハなどを旅行する。この頃のヨーロッパの情勢はナポレオン戦争のために不安定で、周遊を終えたレイハがヴィーンに戻っても同地に落ち着くことは出来ず、1808年にヴィーンを後にし、再びパリへ移住する。    3. パリ時代(1818~1836)  パリでの初めの生活はプライベート・レッスンや作曲、理論書の執筆が中心であり、1818年にようやくパリ国立音楽・朗唱院(復古王政下では王立音楽・朗唱学校と呼ばれた。以下、パリ音楽院と表記する)の対位法とフーガの教授として定職を得る。レイハの『作曲講義Cours de composition musicale』は従来の音楽院の教科書にとって代わり、古い作曲の原理原則のみを学ぶのではなく、実践と現在の音楽から学ぶことを強調している。この教科書では、自由な作曲が許され、和声及び厳格対位法を不動の基礎とする作曲法を真面目に学ばずとも良い、という誤った認識を招くことにもなった。  レイハ自身はパリ移住後も依然としてオペラの分野での成功を目指していたが、その希望は残念ながら叶わず、パリ時代のオペラも《カリオストロ Cagliostoro》、《ナタリーNatalie》、《サッフォー Sapho》 を除いて未上演に終わっている。とはいえ音楽教育家、理論家として周囲の聞こえは高かった。1826年以降、作曲の筆を置いたあとも、1829年にはフランス国籍を取得、1831年にはレジオン ドヌール・シェヴァリエ章受勲、1835年には美術芸術アカデミー会員になっている。   作曲様式、理論書  レイハの作曲様式や彼が展開した音楽理論は、既存の原理原則に捉われない斬新なもので、特にパリの革新派に影響を与えたという。作品様式は伝統から出発しつつ新奇性を探求する姿勢が強い。全体的な特徴として指摘されているのは、非常に豊富な主題、三度関係調や半音階に特徴づけられる大胆な和声法、色彩豊かな楽器法、強烈なコントラスト、自由な形式構成法などである。  これらの特徴の一例として、代表作《36のフーガ》が挙げられる。この作品は、バッハ、ヘンデル、スカルラッティなどの主題を引用する点に伝統との結びつきが見られる一方、大胆な調関係や拍子変化、事実上の対唱の欠落など、学習フーガにありえない特徴を備えている。《変奏法 L’Art de varier》op. 57も同様に、ガヴォットなど伝統的要素を取り入れつつも既存の変奏曲からの逸脱を示す作品であり、極端な音域の利用など音色使いの斬新さが指摘されている。また《練習曲集 Études》Op. 97は、34曲中29曲がプレリュードとフーガが対になっており、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》を想像させる構成で書かれ、若い作曲家向けの指南書となっている。  また、レイハの生前から好評を受けたジャンルに管楽五重奏がある(op. 88, 91, 99など)。レイハは管楽五重奏曲を弦楽四重奏のレベルに高めようとしたと述べており、作品はプロ奏者用にふさわしく高い演奏能力が求められるとともに(パリ音楽院の同僚となるドープラら、プロの管楽アンサンブルを奏者として想定したことで、演奏の難易度を決定づけただろう)、伝統的形式から出発しつつそこから大きく発展した構成を用いることができた。  ヴィーン滞在期から創作が始まった一連の弦楽四重奏曲も、終楽章のフーガや同一楽章内での複数のテンポ交替、既存の形式モデルに当てはまらない楽章構成など、斬新な技法と構成法が目立つ。  レイハの作品はオーケストレーション、音色の利用法が作曲家らの高い評価を受けている。その楽器法はベルリオーズにも影響を与えたと言われ、とりわけ大規模声楽曲の代表作である《レノーレ》(1805)に、両者の音響上の類似性が指摘されている。    優れた教育者としてのレイハの一連の理論書も音楽史において意義深い。以下には数多くの理論書のうち数点を挙げる。1814年出版の『旋律論 Traité de mélodie』は、レイハが一貫した教育的伝統に乏しかった旋律法をもってラモーの和声論に並ぼうとした著作と考えられている。本書でレイハは、旋律を構成する短い音のまとまり(マンブル、デッサン、フレーズ、ペリオード)を見つけ出し分析することを重視し、旋律のまとまりを構成する諸要素に手を加えて作品全体を練り上げることの重要性を主張している。また『高等作曲教程 Traité de haute composition musicale』では、伝統的な声楽フーガにレイハ時代の新しいものとして器楽フーガが対置されている。この理論書でレイハは、ソナタ形式を「大二部分形式」と呼び、提示部に当たる部分を「第一セクション」、展開部、再現部に対応する部分をそれぞれ第二セクションの「前半」「後半」として、今日の教科書的なソナタ理論と対応する形式理論を記している。  レイハの理論家、教師としての存在意義と影響力は無視できない。彼の弟子には現在でも著名な数多くの作曲家が含まれる。例えばパリ音楽院就任前からの弟子にはジョルジュ・オンスロウ、就任後には《ジゼル》などのバレエ作品で有名なアドルフ・アダンの他、ベルリオーズ、ルイーズ・ファランク、フランツ・リスト、セザール・フランク、シャルル・グノーなどの面々がいる。レイハの教師としての秀逸さは自他ともに認めるところで、彼の著作はフランスのみならず多言語にも翻訳で広まり、ヨーロッパ各地の音楽家の注意を引いた。その中にはマイアベーア、シューマンも含まれるほか、スメタナもチェルニーの翻訳版でレイハの著書を持っていた。この事実から考えても、レイハは今日、改めて見直すべき作曲家である。

    執筆者: 丸山 瑶子
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    解説 : 齊藤 紀子 (386文字)

    更新日:2008年10月1日
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    作品(7)

    ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)

    協奏曲 (1)

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    ピアノ独奏曲 (6)

    ソナタ (1)

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    ロンド (1)

    練習曲 (1)

    幻想曲 (1)

    幻想曲 Op.61 幻想曲 ホ短調

    調:ホ短調  作曲年:1807 

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    フーガ (1)