イベール 1890-1962 Ibert, Jacques
解説:永井 玉藻 (4351文字)
更新日:2019年5月14日
解説:永井 玉藻 (4351文字)
20世紀のフランスで活動した作曲家。父ジャックは輸出業者、母マルグリットは才能に恵まれたピアニストで、パリ国立音楽院(以下、パリ音楽院)のピアノ科教授として著名なアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルとル=クーペの下で学んだ経験があった。彼女が好んでバッハ、ショパン、モーツァルトなどの作品を演奏していたことから、イベールはこれらの作曲家を特に好んでいたと言われている。息子がヴァイオリニストになることを望んだ母の意向で、イベールは4歳からヴァイオリンを始めた。しかし彼は幼少期から体が弱く、ヴァイオリンのレッスンには疲れを感じやすかったため、パリ音楽院を受験する生徒たちを指導していたピアニストのマリー・デレの門下生としてピアノを習うようになった。
中等教育を修了すると、フランスの大学入学資格であるバカロレアを取得し、父の経営する会社で働き始める。そのかたわら、イベールはソルフェージュのレッスンや歌手の伴奏などを始めるようになり、その間に徐々に作曲も手がけるようになった。音楽だけでなく演劇も好んでいたため、喜劇俳優を目指そうとしたこともあったイベールだが、マヌエル・デ・ファリャの勧めにより、1910年にパリ音楽院のエミール・ペッサールの和声クラスの聴講生になる。翌年には正式な学生として入学を許可され、1912年にはアンドレ・ジェダルジュの対位法のクラスへ、翌1913年にはポール・ヴィダルの作曲クラスへと進み、ヴィダルの下で3年間学んだ。ジェダルジュの対位法クラスでは、のちに「フランス六人組」として知られるようになるダリウス・ミヨーやアルチュール・オネゲルなどと親しくなり、互いに切磋琢磨することになった。
こうした友情にも関わらず、批評家たちはイベールを「フランス六人組」のメンバーとして数え入れることはなかった。これは、彼の作曲方針や書法などの影響というよりも、彼が1914年に勃発した第1次世界大戦に海軍士官として従軍したり、1919年には29歳でローマ大賞を受賞してイタリアへ留学したりするなど、パリを離れている時期が多かったことが大きい。ローマ大賞への応募は、ジェダルジュやヴィダルらからの反対を押し切ってのものと言われており、のちにイベールの評伝を執筆したジャック・フェショットによると、作曲家はナディア・ブーランジェの助力を得てコンクールの準備を進めたという。大賞の審査に参加していた作曲家のアンリ・ビュセールは、提出されたカンタータ《詩人と妖精》のスコアに目を通した際、その独自性に大きな感銘を受けたことを述べている。この大賞受賞と3年間のイタリア滞在により、イベールの作曲家としてのキャリアが開花することになった。また、同じ時期には彫刻家のロゼット・ヴェベールと結婚した。ヴェベール家は父親が画家、妹は文筆家という芸術志向の一家であり、イベールはヴェベール家と家族ぐるみの付き合いをしていたデレを通してロゼットと知り合いになった。
1920年代のイベールには、充実した仕事の期間が続いた。彼の作品が正式に公の場で演奏されたのは、1922年10月22日に行われたコンセール・コロンヌの公演である。演目は、その一年前の1921年に作曲された《レディング監獄のバラード》で、ガブリエル・ピエルネが指揮した。さらに、1924年1月にはローマ留学中に作曲した代表作《寄港地》が初演され、大好評を博した。この2つの成功によって、イベールの名はフランスだけでなく国際的に広まることとなる。1925年には、その前年に作曲したピアノ曲を改作したバレエ作品《めぐりあい》がオペラ座で初演された。また、この頃には楽譜出版社のアルフォンス・ルデュックから、作品の出版も行われるようになっていた。1927年には、1幕構成のオペラ・ブフ《アンジェリック》が初演されて大きな成功を収め、イベールは同年代の作曲家の中でも代表的な一人として認識されるようになった。
続く1930年代には、オーケストラ作品や映画音楽、室内楽曲の作曲が特に目立っている。イベールは、1932年から33年にかけて作曲されたフルート協奏曲、1935年作曲のサクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲などを次々に発表し、また自作の指揮をフランス国内外で行うようにもなった。1937年には、パリ音楽院時代からの友人であるオネゲルとの共作で、喜歌劇《鷲の子》を作曲。同年、ローマ大賞受賞者の滞在先であるヴィラ・メディチ内にあるアカデミー・ド・フランスの館長に、政府からの指名で任命された。従来、この館長職の候補者はフランス学士院のメンバーから選ばれることになっていたため、メンバーではなかったイベールの任命は異例の事態であり、マスコミを賑わせた。イベール自身はパリとローマを文化交流で繋ぐ役目に献身的に取り組み、またパリよりも穏やかに過ごすことが出来るローマを好んでいた。そのため、彼はフランスとイタリアが敵国同士となった第2次世界大戦の期間を除き、1960年まで館長職を務めた。
この第2時世界大戦中、フランスの作曲家たちはそれぞれの立場に応じて様々な対応を取らざるを得ない状況に置かれた。1940年7月にフランスの首都が中部の温泉地ヴィシーに移転して、ナチス・ドイツの傀儡政権であるヴィシー政権が確立すると、フランスに残っていた作曲家たちも、政権の意向に沿って活動を継続するか、ナチスに抵抗するか、選択を迫られることになる。イベールは1940年に、日本政府からの依頼により、皇紀2600年奉祝曲《祝典序曲》を作曲していたが、ヴィシー政権は彼の音楽を禁止した。そのため、イベールはまず、地中海に面したフランス南部の町アンティーブに逃れて作曲活動を続ける。このアンティーブ滞在の時期には、弦楽四重奏曲や付随音楽《真夏の夜の夢》などが生み出された。1942年から43年にかけての数ヶ月間はスイスに一時的に滞在したが、フランスに戻り、1944年8月まではオート・サヴォワに居を構えた。その後、連合軍とともにパリをナチスの占領から解放したシャルル・ド・ゴール将軍の希望で、イベールはパリに呼び戻される。
第二次世界大戦後のイベールは、作曲活動のかたわらアカデミー・ド・フランスの館長職を続けつつ、1955年10月にパリ・オペラ座とオペラ・コミック座を統括する国立オペラ連合の理事に就任する。しかし、以前からの体調不良が悪化したことにより、翌1956年4月には理事職を辞することとなった。その2ヶ月後、イベールはフランス学士院を構成するアカデミーの一つであるアカデミー・デ・ボザールのメンバーに選出され、ギィ・ロパルツの後任に就任した。公的な職務を歴任して活動を続けるなか、1962年2月5日にパリの自宅で心臓発作を起こし、71歳で没。イベールに関する著作物は、すでに作曲家の生前から複数出版されていたが、1963年にはジョルジュ・オーリックによって『ジャック・イベールの生涯と仕事に関する覚書』が出版されたほか、1990年には生誕100周年を記念した展覧会「ジャック・イベールへのオマージュ:生誕100周年を記念して、1890-1990」がフランス国立図書館で開催されるなど、再評価が続いている。
イベールの作品にみられる書法上の特徴としては、プーランクやミヨー、アンリ・ソーゲなどの作品に見られるのと同様に、一貫して伝統的な調性感を保っていることを指摘できる。彼は無調や復調、セリー主義などとは距離を置いており、九の和音や十一の和音などに音を加えたり、変化させたりした響きを好んで用いた。また、パリ音楽院時代に身に着けた対位法的な書法が作品構造の基礎にあることが多い。影響を受けた作曲家としては、ドビュッシー、デュカス、ルーセル、バルトークらの名を挙げることができる。他方、「フランス六人組」の作曲家たちやラヴェルなどとは、自宅を行き来したり、ともにコンサートを開催したりするなど、20世紀のフランス楽壇を彩る作曲家として刺激を与え合っていた。ラヴェルはイベールより一回り年上だったが、常に彼の実力を高く評価していた。またオネゲルは、批評家のアンリ・コレによって命名された「フランス六人組」に、イベールやロラン=マニュエルを入れたとしても何ら違和感はないことを述べている。
イベールの作曲ジャンルは多岐にわたっており、《寄港地》や《妖精》など、彼の能力が最も発揮されたオーケストラ曲のほか、室内楽曲、声楽曲、単一の楽器のための作品など、あらゆるジャンルの音楽を残した。特に弦楽四重奏曲に関しては、ドビュッシーやラヴェルの作品と並ぶ評価を受けており、20世紀フランスにおける室内楽曲の代表的な作品の一つと言えるだろう。
演劇的要素を含むジャンルに対して愛着を抱いていたイベールは、オペラ、バレエ、付随音楽、映画音楽などに注目すべき作品を多く残した。イベールの第1作目のオペラは、1921年に作曲した《ペルセとアンドロメダ、あるいは3人の中で最も幸福な者》で、妻ロゼットの妹ミシェルの台本による2幕の作品である。ミシェルは「ニノ」というペンネームで活動しており、1927年初演の《アンジェリック》にも台本を提供した。1943年の最後のオペラ《青髭公》に至るまでイベールは計7作のオペラを残しており、そのうちの2作品がオネゲルとの共作である。また、映画音楽に対する彼の思い入れは特に強く、作曲上の悪条件に対する批判を行うなどの発言も行っている。代表的な作品としては、1932年に作曲されたフョードル・シャリアピン主演の映画『ドン・キホーテ』の音楽およびその劇中歌や、アメリカ人ダンサーのジーン・ケリーのシナリオで制作された『ダンスへの招待』のバレエ曲などがある。
ピアノ独奏作品は、1908年作曲の《夜のハーモニー》から1943年作曲の《15のイメージの小組曲》までの13曲と、オーケストラ曲のピアノ・リダクションが数曲ある。ピアノ独奏のための作品は、そのほとんどがキャリアの初期に書かれたもので、1922年作曲の《物語》、1924年作曲の《めぐりあい》、1929年作曲の《アルベール・ルーセルの名によるトッカータ》などは、今日でも広く親しまれている作品といえる。また、歌曲の伴奏楽器としてピアノを使用したり、室内楽曲の編成にピアノを組み入れたりすることも少なくない。
アカデミー・ド・フランスの館長などの公的な活動も行っていたイベールは、インタビューや論文などを残しており、同時代あるいは将来におけるフランスの音楽のありかたについての彼の考察も知ることができる。
作品(14)
ピアノ独奏曲 (7)
曲集・小品集 (3)
★ 種々の作品 ★ (5)
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編曲0