レビコフ 1866-1920 Rebikov, Vladimir
解説:山本 明尚 (4142文字)
更新日:2020年4月12日
解説:山本 明尚 (4142文字)
概論
ヴラディーミル・イヴァーノヴィチ・レビコフは、ロシア作曲家の枠組み内で大まかに言うならば、少し年上にタネーエフやアレンスキー、同年代にグラズノーフやカリンニコフ、少し年下にスクリャービンやラフマニノフ、という世代にあたる作曲家である。以上のような錚々たるシンフォニズム、ピアニズムの大家に囲まれながら、彼はロシア音楽史において独特の位置を占めている。生前には楽壇から「奇妙な作曲家」(ニコライ・リムスキー=コルサコフ)、「ロシアの印象派」(カラトゥィーギン)、「ロシア・モダニズムの徒花」(アサーフィエフ)、「表現主義者」(エーンゲリ)、「興味深い、才能ある、繊細な画家」(カシキーン)、「猛烈な過激派」(コーチェトフ)などと様々に評価されながら受け入れられていた。その一方で、1920年に彼が世を去ってからは、ソヴィエトの公式路線と彼の音楽が相容れられるものではなかったため、歴史家からは「デカダンス作曲家」「独自の音楽的才能を有さなかった」、「偏狭な個人的唯美的経験の世界に閉じこもっていた」、「大したことのない模倣主義者」と軽視され、大規模作品は上演禁止の憂き目に会うなど、不遇の時代が続いた。しかし、近年は20世紀初頭のロシア楽壇における独特の存在感と楽曲が放つ独特で不思議な光彩が注目を集め、その作品に対する理解が次第に進みつつある。
生涯
レビコフはシベリア中部の大都市クラスノヤルスクで、1866年に生まれた。母がピアニストだったこともあり音楽によく親しんだ彼は、モスクワ大学文学部を卒業しつつも、チャイコフスキーの弟子クレノフスキーから音楽の個人指導を受けていた。その後も音楽への愛は薄れることなく、ベルリンとウィーンに渡り、当地で何人かの師のもとで研鑽を続けるとともに、ロシアでまだ知られていなかった音楽の新傾向に触れた。その後ロシアへと帰国し、1893年からモスクワ、キエフ、オデッサ、キシニョフなどの音楽学校で教鞭を執りながら本格的な作曲活動を始めた。
1890年代前半にあたる初期の作品は、彼自身が後に語るところによると、「チャイコフスキーの模倣」に近いものが見られるものだった。確かにそのことは、初期のサロン風のピアノ小品、舞曲などから顕著に感じられる。後にレビコフは偉大な先行者の影響から脱却するため、「オペラを聴かず、演奏会にも行かず、他人の音楽を全く何も聴かないように心がけた」という。この風変わりな行動がどれほど彼自身の創作に寄与したかは興味深いが、他者の音楽に向かい合う代わりに彼は絵画・建築・文学・劇など、他の芸術の研究に没頭したという。事実、1890年代から1900年代にかけて次第に花開いていったロシアの同時代芸術との交流が、彼の内面的な創作哲学に与えた作用は大きかったようである。また、ロシア象徴派の雑誌『てんびん座』や『アポローン』にレビコフに関する記事が掲載されるなど、その交流は外面的にも有益なものとなっていた。
とりわけレビコフが自覚的に切り開き、今日でも世紀末ロシア音楽に彼が残した興味深い足跡として認められているのは、和声面・旋法面での独自性である。この側面は、1897年に作曲された作品13の小品集《10の音詩》で最初に花開いた。1ページ前後の短い作品が連ねられたこのツィクルスは、いわく「いろいろな気分の素描」で、一曲ごとにそれぞれの音響的個性を持ち合わせている。たとえば第2番〈カフカスにて〉では徹頭徹尾解決しない不協和音が連ねられ、終曲〈疑惑〉ではゼクエンツ的に様々な和音が宙ぶらりんのまま連鎖していく。詩人セミョーン・ナドソン(1852-1887)の詩がエピグラフとして添えられていることも、当時のレビコフの音楽以外への関心を物語っている。その後に作曲された《メロミミック》作品17第2番〈牧歌〉ではほとんど全編で全音音階による旋律・和声を採用するなど、レビコフは新しい音響へと傾倒し、自らの技法を深化させていった。晩年の1913年に作曲された《牧歌》作品50では、サティが行ったように楽曲から小節線を全面的に排除するとともに、手のひらを用いたクラスター的奏法すら採用している。レビコフ自身によると、このような和声・旋法上の新しい実践は「音楽により『気分』や『感覚』といったものを伝え、聴き手を同じような気分や感覚にすること」を目的としていたという。したがって、このようなある種革新的な音楽語法が用いられている楽曲は、その内容と標題が彼にとって感覚的に完全に合致していたということになろう。
このような音響への新しいアプローチが、レビコフの名をモスクワやペテルブルクの楽壇で知らしめた。楽曲の中に旋律らしい美しい旋律がみられないこと、リズムが終始一辺倒であること、大規模な作品が書けないことは作曲家を中心に批判を浴びた。また、レビコフが志した和声的新奇性に関しても、「退廃的」「音楽の法則や形式への知識がない」と理解されないこともしばしばあった。しかしその一方で、モスクワで現代音楽を普及するために行われていた演奏会「現代音楽の夕べ」でもレビコフのピアノ曲や歌曲が取り上げられ、その和声面での独自性が「無調的」という名のもとに称賛を浴びるとともに、批評家からは、スクリャービンと比較されて論じられるような有力な若手作曲家の一人として名前を挙げられるようになっていた。楽曲の多くはモスクワに本部、ライプツィヒに支部を構えていたユルゲンソーン社から出版され、ロシア国内外でのレビコフ作品の普及を積極的に助力した。このように不理解と支持とがはっきりと分かれるような図式は、当時のロシアにおけるモダニズム作曲家の受容に典型的なものだった。
1910年にはヤルタに移住し、1920年に同地で没した。首都の音楽生活を離れてからは創作のペースは落ちた一方で、《アラクネー》(1915年)や《貴族の巣》(1916年)のような大規模な劇作品を完成させる意欲は持ち続け、1913年に創作25周年を記念してモスクワの劇場によって劇作品《クリスマス・ツリー》が上演されるなど、引き続き注目を集め続ける存在であった。
作品
レビコフの作品の中で大きな比重を占めていたのは劇作品、ピアノ作品、声楽作品であった。ピアノ作品、声楽作品は主に標題をもつミニアチュールを手掛けた。その中に解決しない不協和音、全音音階などの特色が見られること、標題と楽曲の内容が「気分」や「感覚」といったキーワードにより密接に連関していることは先述したとおりである。〈懇願〉、〈信念〉、〈後悔〉、〈孤独〉(《黄昏に》作品23より)、〈草原の夕べ〉、〈少女が人形を揺する〉、〈森の魔女〉(《シルエット》作品31より)――レビコフが名付けた趣深い標題にも注意しながら彼の音楽に接したならば、より深くその内容が理解できるだろう。
レビコフ作品には小規模でサロン風の作品が多いため、彼の作品は演奏家にとって取り組みやすいものに思われる。しかしその魅力を十全に発揮して音に起こすためには、標題・エピグラフ・演奏指示など、レビコフによって楽譜に固定された要素を「ある気分」というキーワードと連関させて解釈・咀嚼し、それを聴衆に理解させる説得力が必要となるだろう。レビコフの作品はしばしばフランスの印象派の作曲家と比べられて語られる事が多いが、ドビュッシーやラヴェルと比べれば、彼が用いているテクスチャの薄さや単純さ、ヴィルトゥオジティの要素の少なさは明らかである。しかしながらこの余白こそが、作曲家が人々(演奏家・聴衆)に伝えようとした「気分」に沿った楽曲解釈を十全に可能にするためのカンバスを、演奏者に提供しているようにも思われる。
レビコフの創作を語る上で見落としてはならないのが、劇作品の創作であろう。彼は1890年代から定期的に劇音楽の作曲を手掛けていた。作品番号をもつものを列挙するだけでも、《嵐の中へ》作品5(1893年)、《クリスマス・ツリー》作品21(1900年)、《テア》作品34(1904年)、《深淵》作品40(1907年)、《短剣を持った女》作品41(1910年)、《アルファとオメガ》作品42(1911年)、《ナルシッソス》作品45(1912年)、《アラクネー》作品49(1915年)、《貴族の巣》作品55(1916年)という具合になる。これらはしばしば「オペラ」とも呼ばれるが、作曲者自身はそれらを「音楽心理劇」などと呼び、あくまで伝統的なオペラとは違うやり方で成り立っている作品だと考えていた。実際個々の曲を眺めてみると、レビコフがこれらの作品を伝統的な「オペラ」というジャンルで示したくなかった事情もよく分かる。以上の作品は、残念ながら今日ほとんど上演機会に恵まれない作品ばかりだが、その中でも当時ロシア国内外でしばしば上映され、レビコフの劇作品のなかで一番良く知られている作品は、「音楽心理劇」と名付けられた《クリスマス・ツリー》だろう。「上演されるその場所、その時代」を舞台にするという変わった一幕ものの作品で(例えば、21世紀の東京を舞台にしうるというわけだ)、マイムが多くの場面を占めており、歌唱が入る場所はほんのわずかだ。さらに、ピアノ作品で見られたような革新的な書法は部分的に見られるものの、意識的にか抑制されており、全体的に当時の聴衆が広く親しめるような作品となっている。また、全音音階的な序奏と嬰ヘ短調の物憂げな主要部からなる第2場のワルツは、現在もピアノ編曲として独立して演奏されることが多い。
レビコフの劇作品があまり演奏されなくなった理由は、時代背景に帰することができる。彼の大規模な劇作品は、ソヴィエト時代になると政府公式の路線と相容れない「退廃的」作品と捉えられるようになり、1920年代後半には正式に上演禁止の憂き目にあってしまったのである。小規模な作品こそ出版されてはいたものの、このような大規模作品の演奏機会喪失や、政府による「退廃」というレッテル貼りは、レビコフがソ連国内で聴衆からの注目度と、学者や批評家からの評価を落とす要因となった。
作品(56)
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