「死の舞踏 Totentanz(独)/ Dance macabre(仏)」といえばフランスの作曲家サン=サーンスによる作品が非常に有名であり、リストもこれを1876年にピアノ・ソロ(S.555)にアレンジしている。
しかし、リストがこのアレンジに着手するずっと以前にオリジナルの作品として「死の舞踏」という曲を作曲している。これがピアノと管弦楽のための本作品で、グレゴリオ聖歌の「ディエス・イレ(怒りの日)」の主題によるパラフレーズである。
グレゴリオ聖歌のディエス・イレは「死」を意味する主題として19世紀ロマン派の時代から20世紀なかばに至るまで、多くの作曲家によって引用された。有名なものとしては、まずベルリオーズの『幻想交響曲』があげられる。リストは1830年にこの作品の初演をパリで聴いているので、影響を受けた可能性は十分にある。リスト以降では、両作品の影響がさまざまな作曲家たちに及び、リストもアレンジしたサン=サーンスの『死の舞踏』、マーラーの『交響曲第2番』「復活」などがある。とりわけリストの作品に影響を受けたのはチャイコフスキーをはじめとしたロシアの作曲家たちで、チャイコフスキーは歌曲『暗い地獄で』や『マンフレート交響曲』で用いたほか、ラフマニノフはピアノ作品だけでも『ピアノ・ソナタ第1番』、『音の絵』(第2集)、そして『パガニーニの主題による狂詩曲』の中で用いている。
音楽面の影響はおそらくベルリオーズから受けたものと思われるが、この作品の構想には他の動機も関連している。それは、1838年にイタリアのピサ(「斜塔」で有名な)を訪れた際、カンポサントにあるフレスコ画「死の勝利」を見てインスピレーションを受けたことである。
リストがこの作品に着手したのはおよそ10年後の1847年頃と推定されるため、この訪問を作品構想の直接的な動機とみなすのは早まった考えであろう。初稿が完成したのち、1853年、また59年頃にも改訂が加えられ、最終的な完成をみたのは1862年である。なお、このとき独奏用(S.525/A62)と2台ピアノ用(S.652/C24)も作られ、出版されている。初演は1865年4月15日、オランダのデン・ハーグにて、ハンス・フォン・ビューローのピアノ独奏で行われた。