フレデリック・ショパン(1810-1849)は生涯において4曲の《バラード》を作曲した。最初の《バラード 第1番》作品23は1831年に作曲され、これによって新しいピアノ音楽ジャンルが切り開かれた。
18世紀から19世紀中葉まで、音楽分野におけるバラードは専ら歌曲に使用される言葉であった。ショパンの時代にはシューベルト(1797-1828)の歌曲が人気を博す一方、ゲーテ(1749-1832)やシラー(1759-1805)、レーナウ(1802-1850)の詩に基づく歌曲がシューマン(1810-1856)やレーヴェ(1796-1869)らによって書かれた。器楽作品にバラードという言葉を用いたのはショパンが初めてであり、従って、ショパンはピアノ音楽におけるバラードというジャンルの開拓者として位置づけられる。
●語源と由来
フランス語のballade(バラード)と英語のballad(バラッド)は元来異なるジャンルに属するが、共に「踊る」を意味するギリシア語のballizo(βαλλίζω)、ラテン語のballareを語源とする。舞台舞踊として発達したバレエ(ballet)が共通の語源であることに示される通り、バラードもまたダンスと深く関連する。中世以降、フランスでは吟遊詩人によって詩としての形式の地位が高められた。イギリスでは14世紀にダンス・ソングとしてバラッドが歌われ、18世紀以降、旋律的な要素の強い物語詩として発展を遂げた。
●ロマン主義文学の先駆けとして
18世紀末にはドイツの詩人たちがバラードの創作に熱中し、ドイツ文学史及び音楽史に新たな境地を開いた。その立役者となったのがゲーテとシラーである。ゲーテやシラーのバラードは専制や圧政からの自由が叫ばれたフランス革命前後の社会的な風潮を映し出し、民族意識の覚醒をも促すものである。内容的な特色として、民間伝承や神話に基づき、戦争、犯罪、心霊現象、神秘体験などがリアリスティックに描かれることが挙げられる。こうした文学作品は歌曲の発展を導き、シューベルト、ツェルター(1758-1832)、レーヴェらによって多くのバラード(歌曲)が生み出された。
19世紀初頭にはドイツ語のバラードがポーランド語に翻訳され、ミツキェーヴィチ(1798-1855)をはじめとするポーランド・ロマン主義文学者たちに影響を与えた。イギリスのバラッドもまた同時期に紹介されている。これら外国の物語詩の特色を踏襲するポーランドのバラードは、他国の勢力下における屈辱的な民族の状況や愛国心などを描き出すという特徴を有する。ロシア帝国の秘密警察がミツキェーヴィチのバラードを危険視していたというのも、こうした作品の性質が故である。
●ショパンのバラード
ショパンの4曲のバラードは、ミツキェーヴィチのバラードと関連があるとされてきた。曲と詩の関連性については異論があるが、《バラード 第1番》作品23は「コンラッド・ヴァレンロッド」、《バラード 第2番》作品38は「シフィテシ湖」、《バラード 第3番》作品47は「シフィテジャンカ」、《バラード 第4番》作品52は「3人のブドリス」から着想を得たとされる。これについてはシューマンの証言に依るところが大きいが、ショパンがミツキェーヴィチの作品の音楽化を試みたとまでは断言できない。
作曲家としてのショパンの人生を概観すると、オペラや標題音楽、宗教音楽の作曲に消極的であり、ピアノによって独自のロマン主義的世界観を描き出すことにこだわったショパン像が浮かび上がる。そのようなショパンにとって、ポーランド人の心情を鋭く代弁したミツキェーヴィチの物語詩は憧れであり理想であったと考えられる。1830年に音楽家としての成功を夢見てウィーンへ出発したショパンは、当時人気のあった歴史歌劇や流行歌の旋律を用いた作品などから離れ、「偽りのない感情表現」を主要課題とするロマン主義の本道へと足を踏み入れていった。こうした中で作曲された《バラード》は「ピアノによる物語詩」という新しいジャンルの音楽であり、ショパンにとっては作曲家としての方向性を定めた記念碑的な作品である。その主たる特徴は、既に述べたバラードの本質を織り込みながら、独自の構成、形式を周到に編み出し、音楽による物語詩を完成させているという点にある。物語性を喚起する旋律の抑揚、陰と陽の明快な構成など、文学との関連性を想起させる要素が散見されることも特徴の一つである。
●バラード 第3番 作品47 変イ長調
1841年に作曲され、ノアイユ伯爵令嬢に献呈された《バラード 第3番》は、ショパン自身が最も好んで演奏した作品の一つである。
シューマンは本作品について次のように述べる。「このバラードはショパンの3作目であり、彼の初期の作品とは形式も性格も著しく異なっている。ショパンの最も独創的な作品の一つである」
シューマンの言葉通り、先に書かれた2つのバラード、42年に完成させる4曲目のバラードが悲劇的な色合いの濃い作風であったことを照らすと、軽快で優美な本作品は異質でさえある。陽気さ、剛毅さ、軽やかさで満たされたこの作品について「作曲家ショパン自身のイメージ」とはかけ離れたものとする意見さえ見られた。定期刊行物「ドーム」に掲載された匿名作家イスラフェルは、これに関連して次のように述べる。
「ショパンはどのような奇異な影響を受けてこの変イ長調のバラードを書いたのだろう? この曲は、少年のような威勢のよさと勇ましい軽快さにおいて、ショパン自身とは全く異なっている。非常に若々しく、大層大胆で、大成功している。ありきたりなメランコリックな終曲を迎えるのではなく、幸福なフィナーレに向かって理路整然と進んでいく」
1841年、《バラード 第3番》の作曲に取り組んでいた頃、ショパンは公私ともに充実した生活を送っていた。マジョルカ島で患った病から解放され、ノアンとパリで充実した日々を送るショパンが書き下ろしたバラードは、ハッピーエンドを思わせる喜びに満ちた作風であった。これも、作曲家自身の内面が作品と深くリンクしている故であると考えられる。
この作品はミツキェーヴィチの物語詩「シフィテジャンカ」に触発されて書かれたとの説がある。この説を真実性の高いものとする見解も存在するが、真相については定かではない。
ウィルビーは《バラード 第3番》の冒頭のフレーズと《スケルツォ 第3番》作品54の序奏との類似性を指摘している。ここでは「問いと答え」を思わせる音形が提示され、同時に、この楽曲の主要なテーマ(第1主題)が打ち出される。続くシンコペーションは本作品の全体的な特徴であり、「馬の蹴りのようなリズム」とも表現される(ライヒテントリット)。この軽快なリズムにのせて、へ長調の愛らしい第2主題が提示される。この主題は揺れ動く感情を示すかのように転調し、激しさ、勇ましさを醸し出し、再び原型へと回帰する。展開部では16分音符の連続が優美な旋律を奏で、左手の分散和音が楽曲をクライマックスへと導く。第2主題が転調し、原型とは異なる形で奏でられた後、嬰ハ短調の揺れ動く不穏な雰囲気の中で、第1主題が断片的に回想される。終曲部では第1主題が華々しく再現され、輝かしい壮麗な音響の中で曲が閉じられる。
●参考文献(※本文中の引用はすべてこれらの文献に基づく。)
・ショパン バラード集: New Edition 解説付(大嶋かず路 解説)、東京:音楽之友社、2014年。
・Barbedette, Hippolyte, Chopin: Essai de critique musicale, Paris: Leiber, éditeur, librairie centrale des sciences, 1861.
・Huneker, James, Mezzotints in Modern Music: Brahms, Tschaïkowsky, Chopin, Richard Strauss, Liszt and Wagner, New York, Scribner, 1901.
・Huneker, James, Chopin: The Man and His Music, New York: Dover Publications, 1966.
・Karasowski, Moritz, Frederic Chopin, Volume 2, New York: Scribner, 1906.
・Leichtentritt, Hugo, Frédéric Chopin, Berlin: Harmonie, 1905.
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Taruskin, Richard, The Oxford History of Western Music: Music in the Nineteenth Century, vol. 3, Oxford: Oxford University Press, 2009.
Tomaszewski, Mieczysław, Chopin: Człowiek, Dzieło, Rezonans, Kraków: Polskie Wydawnictwo Muzyczne, 2005.
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