ボロディンは、グリンカのロシア民族主義の精神を受け継いだ、ロシア国民楽派の「五人組」の一員である。そして、他の4人(バラキレフ、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフ)があまり向かい合うことのなかった交響曲の分野に積極的に取り組んだ作曲家である。そのことを冠して、チャイコフスキーとともに、ロシアにおける交響曲の創始者として捉えられることもある。貴族の私生児として生まれたボロディンは、ピアノ、チェロ、フルートに加え、医学と科学も学んでいる。とりわけ、化学の研究のために派遣されたイタリアとスイスにおいて、19世紀ロマン派を代表する作曲家の作品に触れ、徐々に傾倒していったことが、作曲活動にとって1つの転機となったと考えられている。そして、亡くなるまで化学者としての活動と作曲家としての活動を両立させた稀有な音楽家として知られている。
この作品は、晩年の作曲活動の円熟期、1885年に52歳の年で作曲された。同年に、サンクト・ペテルブルクから出版されている。当初はオーケストラ作品として構想された作品を、ボロディン自身がピアノ・ソロのために編曲したものである。ボロディンの死後、グラズノフ(1865-1936)が《小組曲 作品1》をオーケストレーションした際に、この作品もオーケストレーションを行い、組曲のフィナーレとして置かれた。アレグロ・ヴィヴァーチェの8分の12拍子で音楽が運ばれ、3部形式の形をとっている。また、フラット系とシャープ系のいずれかに偏ることのない調号の変化が見られる。尚、この作品は、リストが非常に好んだとされている。