コチャルスキ, ラオル 1884-1948 Koczalski, Raoul
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (965文字)
更新日:2022年9月20日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (965文字)
ラオル・コチャルスキ Raoul Koczalski
(1884年ワルシャワ[ポーランド]~1948年ポズナン[ポーランド])
ラオル(・フォン)・コチャルスキは、ポーランドのピアニスト、作曲家(ゲオルク・アルマンドという別名でも知られる)。フリデリク・ショパンの音楽の解釈者として名高い人物である。
コチャルスキは1884年にワルシャワで生まれた。両親が彼にとっての最初の音楽の師となる。1888年、4歳にして早くもワルシャワで舞台デビューを果たし、神童と呼ばれるようになった。同年、家族とともにサンクト・ペテルブルクに渡り、アントン・ルビンシテインに師事、同地で200回近くものコンサートに出演した。その後、ヨーロッパ各地を訪れ、何年にもわたり数多くの演奏会を行った。
1891年、ラオル・コチャルスキはパリ音楽院から名誉ある賞を授与され、またスペイン国王の宮廷ピアニストの称号を手に入れた。1896年には彼のコンサート活動1000回を記念する演奏会が行われたが、この時彼はまだ12歳だった。レパートリーにはバッハ、ベートーヴェン、リスト、パデレフスキ、モーツァルトをはじめとする多くの作曲家の作品が含まれたが、何より彼はフリデリク・ショパンの作品の演奏と解釈によって最大の名声を得ていた。
コチャルスキはパリで、ピアノ、楽器法、作曲、音楽学、また哲学を学んだ。ドイツでも非常に多くの時間を過ごし、演奏活動を行っている。第二次世界大戦の勃発後、ベルリン当局に公の場での演奏とベルリン市外への越境を禁じられたが、そうした命令にもかかわらず、彼は弟子や友人らのためにホームコンサートやリサイタルを開催し続けた。1945年の終戦後、コチャルスキはポーランドに戻り、ポズナンとワルシャワの音楽高等学校でピアノ科教授として教鞭を執る。
ラオル・コチャルスキは1948年、演奏会出演の準備中に心臓発作を起こし、亡くなった。生前彼はヨーロッパ各地でフリデリク・ショパンの作品を演奏し、数多くの録音を残している。
コチャルスキは演奏や教育活動だけでなく、幼少期から作曲も手がけた。大多数はピアノ曲だが、ピアノ伴奏付の声楽曲、ヴァイオリンあるいはチェロとピアノのための作品も多い。また彼の作曲した作品の中には、管弦楽曲、さらにはオペレッタも数曲含まれている。