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モンジュルー, エレーヌ・ド 1764 - 1836 Montgeroult, Hélène de

モンジュルー, エレーヌ・ドの肖像写真
  • 解説:藤田 真優 (5932文字)

  • 更新日:2026年3月29日
  • 1789年のフランス大革命とその後の政治体制の変動はヨーロッパ世界を激震させ、音楽文化にも多大な影響をもたらした。貴族出身の作曲家兼ピアニスト、エレーヌ・ド・モンジュルーもまた、社会に翻弄された音楽家の一人である。しかし彼女は自身の演奏の手腕とサロンで築いた人間関係を武器に、動乱の時代を果敢に生き抜いた。モンジュルーの記念碑的な著書『フォルテ・ピアノの教育のための完全な教程 Cours complet pour l’enseignement du forté-piano 』は彼女の優れた音楽的才能を示すだけでなく、当時のピアノ演奏の理想の姿を鮮明に伝えてくれる。

    1. 家族と最初の音楽教育(1764年~1783年)
    176432日、エレーヌ・ド・ネルヴォ(モンジュルーは結婚後の姓であるため、ここでは出生時の姓であるネルヴォと記す)はフランス南東部のリヨンに生まれた。父ジャン=バティスト・ド・ネルヴォと母アンヌ・マリー・ザビーヌ・マイユーヴルは前年に結婚しており、どちらも新興貴族であった。商業と工業、金融の盛んなリヨンにあって、ネルヴォ家の邸宅には美しい絵画が飾られていたという。翌1765年に弟クリストフ・オリンプが誕生すると、一家はパリへ移住した。
    ネルヴォ家はエシーキエ通りの自宅に多くの客を招き、華やかな生活を送った。エレーヌが最初に受けたクラヴサンあるいはフォルテ・ピアノの教育については不明だが、記録されている最初の教師は、
    1776年にパリに到着したニコラ=ジョセフ・ヒュルマンデルである。彼はカール・フィリップ・エマニュエル・バッハの弟子であり、パリでは上流階級の人々との交流の中で成功を収めていた。

    2. 結婚とサロンでの音楽活動(1784年~1790年頃)
    1784年、エレーヌは28歳年上のアンドレ=マリー・ゴーチエ、モンジュルー侯爵と結婚した。彼は軍隊で活躍し、兄の死によりモンジュルー城と侯爵の爵位を継承していた。モンジュルー城の立派なサロンではコンサートが頻繁に開催され、後にパリ音楽院の同僚となるグレトリケルビーニ、メユール、ジャダン兄弟、ヴァイオリニストのクロイツェル、ロード、バイヨといった多くの著名な音楽家が彼女のもとを訪れた。とりわけ親交があったのは、1785年に出会い、マリー=アントワネット専属のヴァイオリニストとして活動していたジョヴァンニ=バティスタ・ヴィオッティである。彼はヴァイオリン奏法の発展に大きく貢献し、後にフランス・ヴァイオリン楽派の父と呼ばれることになる。二人はたびたび共演し、エレーヌは彼のヴァイオリン協奏曲をピアノ用に編曲し出版した。彼女はまた、自宅以外のサロンでも演奏活動を行い、ルブラン夫人[1]宅での演奏も記録されている。スタール夫人[2]とは手紙も送り合うなどして友情を築き、その関係はスタール夫人が亡くなる1817年まで続いたと考えられる。
    エレーヌはヒュマンデルから指導を受けた後、
    1784年頃には、カルクブレンナージョン=フィールドクラーマーといった著名なピアニストを輩出したクレメンティ、また、1786年にパリを訪れ王妃に気に入られたドゥシークに師事した。また、大陸での演奏ツアーの一環としてパリを訪れたクラーマーに対してはエレーヌがレッスンを行っており、彼は1791年にロンドンへ戻る前にモンジュルー城でヴィオッティらと共演している。 

    3. フランス大革命の勃発とその間の音楽活動(1789年~1798年)
    3. 1 動乱期
    フランス大革命はエレーヌと彼女の周囲の人々の生活を一変させた。エレーヌ自身の政治的思想を示す文書などは残されていないが、彼女の人間関係や社会的地位を鑑みると、おそらく立憲君主制を支持していたと考えられる。上流社会と関わりのあった音楽家の多くは海外に亡命し、一部の音楽家は国内の革命派からはもちろんのこと、王党派やフランス革命を警戒した諸外国からも攻撃に遭い、ときに板挟みの状態に陥った。エレーヌも例外ではなく、
    1791年にはヴィオッティとともに王党派新聞記者のゴーチエから誹謗中傷され、ヴィオッティは翌1792年ロンドンへ亡命した。モンジュルー夫妻も同年7月に外交官のユーグ=ベルナール・マレに同行してロンドンへ向かうも、亡命貴族の財産の国有化に伴い10月にはフランスへの帰国を余儀なくされた。1793年の春にはドイツに逃れ、宿泊先の館でオルガンを演奏したことが記録されている。同年7月、夫のモンジュルー侯爵が、在ナポリフランス大使となったマレの書記官に命じられ、夫妻はマレとともにナポリへ向かった。しかしその道中、イタリア北部のノヴァーテで、反革命を掲げるオーストリアの軍に捕らえられてしまう。エレーヌは間もなく解放されスイスへ逃れるも、捕虜となった夫は9月に獄中で他界した。ノヴァーテ事件とよばれるこの出来事の間に、エレーヌは全財産を失った。
    ノヴァーテ事件で非人道的な反革命派により屈辱を味わった後、エレーヌは革命に共鳴を示すようになった。にもかかわらず、帰国した彼女はパリのコンシェルジュリーで投獄された。フランス国内ではロベスピエールによる独裁政治が繰り広げられており、モンジュルー夫妻は反革命的な貴族として保安委員会に密告されていたのである。
     

    3. 2 ラ・マルセイエーズ事件
    現在もフランス国家として歌われている《ラ・マルセイエーズ》は、革命政府によるオーストリアへの宣戦布告に際して立ち上がった義勇兵の一部隊、マルセイユ部隊が歌ったことで広まった。戦場の兵士を鼓舞し、自由を求める民衆の心を掻き立て、そしてときに、革命への共感を示すために歌われた革命のシンボルともいえる存在である。エレーヌがこの曲を演奏することで愛国心を証明し難を逃れた、という以下のエピソードが残されている
    [3]
    政府に捕らえられたエレーヌを救ったのは、サロンでともに音楽活動に携わり、パリ音楽院の初代校長となるベルナール・サレットであった。彼がエレーヌを公安委員会の前に連れ出して彼女が優れたピアニストであることを訴えると、委員会のメンバーたちは彼女に《ラ・マルセイエーズ》を演奏するよう命じた。エレーヌがこの曲のメロディに基づく即興演奏を披露したところ、その見事な演奏と共和政への共鳴に感銘を受けた委員会のメンバーは彼女を解放した。
     

    3. 3 パリ音楽院の創立とモンジュルーの採用
    旧体制下のフランスの音楽教育は、主に歌唱に重点が置かれ、器楽の教育は私的なものにとどまっていた。
    1792年に国民衛兵楽団によって設立された音楽学校は、翌年公安委員会の監視のもと国立音楽学院として公教育を開始した。革命の祭典への参加が求められ、祝祭的な場に相応しく屋外でも十分に鳴り響く管楽器がとりわけ重用された。翌年8月、音楽学院はパリ国立音楽・朗唱院として再組織され、新たに30人の教授を採用した。エレーヌはこのとき、男子ピアノ・クラスの教授に任命された。彼女は第一級の教授として、男性教授陣と同額の2500フランの給料を受け取った。同年、音楽院の印刷所から《3つのピアノ・ソナタ》作品1を出版した。1797年頃には徐々に経済状況が改善され、二人目の夫シャルル・ヒスと息子オラックとともにサン=ラザール通りに移り住んだ。しかしその翌年の1月には体調不良を理由に音楽院を辞職し、その後は作曲やサロンでの活動に専念することとなる。 

    4. ナポレオンの治世(1799年~1814年)
    179912月、ナポレオン・ボナパルトが革命の終結を宣言すると、フランスには一時的に平和が戻った。音楽院を辞職したエレーヌは自宅でサロンを開くようになった。とりわけ密な関係を築いたのが、音楽愛好家のトレモン男爵[4]である。彼がフランス国立図書館に寄贈した有名人の自筆の手紙のコレクションには、エレーヌの手紙とともに、彼女の活動や人物像についての説明が添えられている。彼によると、エレーヌの演奏は彼女の家でしか聴くことができないため、多くの人は彼女がヴィルトゥオーソであることを噂でしか知らなかったという。
    作曲活動も盛んに行い、《
    3つのピアノ・ソナタ》作品21800頃)と作品518051807)、《ピアノのための小品》作品31804)、歌とピアノのための《6つの夜想曲》(1807頃)を出版した。ピアノ・ソナタは、5曲目に当たる作品21以前は2つの楽章で構成されているが、作品22以降は全て緩徐楽章を含み、3つ以上の楽章を持っている。特に作品5は遠隔調への転調やオクターヴ、3度の重音などが効果的に用いられた劇的な作品である。
    私生活では
    1802年にシャルル・ヒスと離婚するも、サン=プリの別荘を購入するなど経済的には安定しており、ノヴァーテ事件に対するオーストリアからの賠償金があったと考えられる。プロヴァンス通りやコーマルタン通り、タンプル通りなど何度か住居を移した後、最終的にはクリシー通りに落ち着いた。 

    5. 王政復古期(1815年~1830年)
    5. 1 サロンと私生活
    権力濫用への抵抗と対外戦争の敗北により力を失ったナポレオン
    1世は1814年に退位した。オーストリア外相メッテルニヒを中心に開催されたウィーン会議では、勢力均衡と保守的な正統主義が打ち出され、ヨーロッパに秩序が再建された。
    エレーヌのサロンには、ナポレオンの大陸封鎖令により交易が途絶えていたイギリスからクラーマーやジョン=フィールドが訪れ、
    モシェレスやマリー=ビゴ、メンデルスゾーンなど、優れた音楽家が集まった。メンデルスゾーンは1825年の母親宛の手紙の中で、エレーヌの自宅を訪れた際にブロードウッドのピアノを見つけ、彼女に演奏してもらったことを記している。
    1819年には、帝政期にナポレオン軍で活躍した19歳年下のシャルナージュ伯爵と三度目の結婚を果たした。王政復古のただ中で帝政時代の軍人と結婚したことは不可解である。しかし彼は1826年に乗馬中の事故で亡くなり、エレーヌは再び未亡人となった。 

    5. 2. 『フォルテ・ピアノの教育のための完全な教程』
    1820年、エレーヌはついに『フォルテ・ピアノの教育のための完全な教程』を出版した。トレモン男爵によると、この『教程』は1812年頃にはある程度仕上がっていたという。3巻合計約780ページという大規模な著作で、17章にわたる膨大な数の予備練習と114曲の練習曲、その他9曲の小品は全て、エレーヌ自身が書いたものである。さらに各章、各曲に付された〈考察〉では、技術に関する助言だけでなく趣味や様式、性格などにも言及しており、その明快なテクストからは、彼女の音楽的才能と豊かな知性、社交界で磨かれた教養が垣間見える。J.S. バッハヘンデルへの敬慕を思わせる対位法的作品や舞曲から、和声的な新しさを持った性格的小品まで、そのレパートリーはまさに18世紀と19世紀の橋渡し的存在といえる。しかし彼女が何よりも重点を置いたのは「ピアノに歌わせる」ことであり、助言の多くはその目的に沿うように展開されている。それはショパンタールベルクといった後のスターたちが目指したピアノ演奏のあり方を大きく先取りしている。 

    6. 晩年(1830年~1834年)
    1830年のパリでは反動的な復古王政に対する市民の不満が爆発して七月革命が起こり、ルイ=フィリップによる七月王政が開始した。音楽界ではベルリオーズの《幻想交響曲》が初演され、翌年にはショパンがパリに到着した。フランスでもロマン主義が表面化し、サロンを中心にピアノ文化が花開いた。
    エレーヌは『教程』の出版を最後に、作曲からは身を引いていた。
    1834年には健康状態が悪化し、療養のため息子とともにイタリアへ渡った。その約2年後の1836520日、フィレンツェでこの世を去った。 

    7. 後世の評価
    19世紀後半にパリ音楽院で教授を務めたアントワーヌ・フランソワ・マルモンテルは『著名なピアニストたち』(1878)の中で、モンジュルーについて語っている。彼は「モンジュルー夫人のメソッドでピアノの学習を始めた」とし、彼女の教育者としての功績を称賛している。さらにピアニストとしても、その卓越したヴィルトゥオジティを称えている。しかしその才能についての評価は、「ほかの女性芸術家に優越する」と男性の優位を前提としたものにとどまっており、モンジュルーの作品に関しては、クレメンティやクラーマー、ドゥシークらに倣った独創性に欠けるもの、とみなしている。こうした記述は、19世紀のフランスを支配した、女性はその性質上自由で創造的な活動には適していないというジェンダー観に起因していよう。2000年以降はフランスを中心にモンジュルーの再評価がすすんでいる。ジェローム・ドリヴァル氏はモンジュルーに関するあらゆる文書を照合し、2006年と2024年の著書において彼女の波乱万丈の生涯を詳細に描いている。作品については18世紀の鍵盤作品の継承と、クラーマーやシューマン、メンデルスゾーンらへの影響が示唆されている。
    困難な社会的地位にありながら激動の時代をピアノとともに懸命に切り抜けたモンジュルーの輝かしい遺産は、
    19世紀初頭のフランスにおけるピアノ作品と演奏観への知見を提供する貴重な作品群として認められるべきであろう。
     

    主要参考文献

    Dorival, Jérôme. 2024. Hélène de Montgeroult: le génie d’une compositrice. Lyon: Symétrie.


    [1] エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755–1842)。マリー=アントワネットの宮廷画家。
    [2] アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール(1766–1817)。批評家、小説家。旧体制末期に活躍した財務長官ジャック・ネッケルの娘であり、彼女の母スザンヌもサロン主催者としてよく知られていた。
    [3] このエピソードは正式な記録ではなく19世紀以降に書かれたものなので真偽は定かではないが、彼女の研究の第一人者であるジェローム・ドリヴァル氏は、決してありえないことではない、としている。
    [4] ルイ=フィリップ・ジョゼフ・ジロー・ド・ヴィエンヌ、トレモン男爵(1779–1852)。彼自身もサロンを開き、そこにはショパンやメンデルスゾーンを含む有名な芸術家が集った。

    執筆者: 藤田 真優
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    作品(8)

    ピアノ独奏曲

    ソナタ (3)

    ピアノ・ソナタ Op.5-1

    調:ニ長調  総演奏時間:27分00秒 

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    解説0

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    編曲0

    ピアノ・ソナタ Op.5-2

    調:ヘ短調  総演奏時間:21分30秒 

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    編曲0

    ピアノ・ソナタ Op.5-3

    調:嬰ヘ短調  総演奏時間:16分30秒 

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    解説0

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    編曲0

    練習曲 (1)

    エチュード 第71番

    総演奏時間:1分30秒 

    解説0

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    種々の作品 (2)

    小品 Op.3

    調:変ホ長調 

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    幻想曲

    調:ト短調  総演奏時間:12分00秒 

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    歌とピアノ

    種々の作品 (1)

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