ケックラン 1867-1950 Koechlin, Charles
解説:川上 啓太郎 (2488文字)
更新日:2020年2月17日
解説:川上 啓太郎 (2488文字)
シャルル・ルイ・ウジェーヌ・ケクランはフランスの作曲家である。作品番号付きだけでも226もの作品を残しており、ダリウス・ミヨーと共に多調音楽の先駆者として20世紀初頭のフランス音楽を牽引した。同時代のドビュッシーやラヴェルとは似て非なるケクランの和声や管弦楽の扱いは、25歳年下のミヨーに「まるで私たちの後の世代に属する魔術師の音楽のようだ」と言わしめ、実際にその影響はミヨーの世代に留まらず、より後の世代のメシアンを越えてデュティユーにまで及んでいる。主な教え子としてはフランス六人組のプーランクやタイユフェールのほか、アンリ・ソーゲらアルクイユ楽派の面々、コール・ポーターなどが挙げられる。管弦楽編曲家として周囲から寄せられた信頼も厚く、手がけた作品はフォーレの《ペレアスとメリザンド》、ドビュッシーの《カンマ》、ポーターの《ウィズイン・ザ・クオタ》など多岐に渡る。またフォーレやドビュッシーの伝記の他、当時のあらゆる音楽書法を網羅するかのように無数の著述を残している。そのいずれも彼の作曲家としての鋭い感性と見識が反映されており、とりわけ『管弦楽法』(1954-9)は現在も名著として名高い。
ケクランはアルザスにルーツを持つケクラン一族の末裔として、1867年11月27日パリに生まれた。1887年に名門エコール・ポリテクニークへ入学するが、結核にかかり休学。成績悪化により天文学者になるという夢を断たれたケクランは、療養中に独学で和声法の学習を始め、中退後に親族の反対を押し切って音楽の道へ進むことを決意する。1890年には対位法をシャルル・ルフェーヴルに師事し、パリ国立音楽院へ進学するも、既に23歳だったことを理由にテオドール・デュボワが自身の和声法のクラスへの入学を拒否したため、ケクランはアントワーヌ・トドゥーの同クラスへ聴講生として通い始めた。その後幸運にも正規の門下生として認められると、同様の手順でマスネの作曲のクラスの門下生となった。またジェダルジュの元で対位法とフーガを、ブルゴー=デュクードレの音楽史の講義でギリシャ旋法や中世の音楽を学んだことは、彼の作風に大きな影響を与えた。1896年のマスネの退官後はフォーレのクラスで学び、彼のアシスタントを務めるようになる。
この音楽院での徒弟時代に、ケクランは歌曲・合唱曲作家としてそのキャリアを始めた。主題の明確な再現を忌避するという形式的特徴は既に顕著であるものの、この時期のピアノ曲として唯一作品番号が与えられた《2台ピアノのための組曲》Op. 6(1896)を含め、器楽曲は総じて習作的性格に留まっている。音楽院を離れた後の《ピアノ連弾のための組曲》Op. 19(1898-1901)は幾分進歩が見られるが、ケクランの音楽の独自性がはっきりとした形で現れ始めるのは1907年以降である。この頃より異なる和音同士が組み合わされる多層的なテクスチュアが形成されるようになり、それは固有の音響を生み出すようになる一方で、ショパンやリストなどの伝統的なピアニズムの系譜に属するそれとは全く別種の困難を、ピアニストたちに課すこととなった。《クロマティック・ハープあるいはピアノのための夜想曲》Op. 33(1907)は、後の1910年代に開花する多調性の様々な萌芽に満ちている。
しかし国民音楽協会では次第に冷遇されるようになり、1909年にラヴェル、フローラン・シュミットらと共に独立音楽協会を立ち上げる。そして作曲技法の十分な成熟を感じたケクランは、1911年から彼の言うところの「室内楽の危険な領域」、すなわち多楽章からなる本格的なソナタ楽曲へと専心するようになる。この時期に、ピアノと独奏楽器のための9つのソナタや3つの弦楽四重奏曲を始めとして、代表的な室内楽曲の多くが書かれた。前述のようなピアノ書法の複雑さは、特に1917年以前に完成された作品に顕著である。これらの室内楽曲の集大成である《ピアノ五重奏曲》Op. 80(1908-21)は、その初演を1934年まで待たねばならず、初演に際してはピアノ・パートにかなりの改訂を要した。
ピアノのための作品の多くも、この時期に生み出されている。《バラード》Op. 50(1911-15)は7曲構成の大作であり、ピアノ独奏版と管弦楽伴奏版(1919)が存在する。《エスキス》Op. 41(1905-15)は長い作曲期間を経てまとめられた曲集で、一部に《バラード》の断片を含むなどしている。最も重要とされている作品は《風景と海景》Op. 63(1915-6)と《ペルシャの時》Op. 65(1916-9)である。これらの曲集では多調性による先駆的な和声法が用いられており、より規模が大きく発展的な後者では無調的な響きも多く見られる。それらと異なる方向性を示しているのが《ソナチネ》、《小品》あるいは《パストラル》等と名付けられた作品群で、《5つのソナチネ》Op. 59(1515-6)から《4つの新しいソナチネ》Op. 87(1923-4)に至るまで、多数の作品が生み出された。いずれも素朴で親しみやすく、そのいくつかは教育的性格を帯びている。
上述のような多産な時期が過ぎた後から1950年12月31日にカナデルで没するまでも、ケクランはピアノという楽器にしばしば立ち返り、若き日に祖父の土地で過ごした想い出を回顧した《田舎の古い家》Op. 124(1923-33)や、女優リリアン・ハーヴェイへ思いを馳せた《リリアンのアルバム》Op. 139, 149(1934-5) など、注目すべき作品を残している。また『ルヴュ・ミュジカル』誌の「フォーレ特集号」における、フォーレの弟子達が曲を寄稿する企画では《フォーレの名によるコラール》Op. 73bis(1922)を書きおろしており、晩年の管弦楽作品《バッハの名による音楽の捧げもの》Op. 187(1942, 6)でも、作品の中央に位置する第7曲にピアノ独奏のための〈アルバムの一葉〉を配置するなどしている。
作品(19)
ピアノ独奏曲 (6)
ソナチネ (2)
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曲集・小品集 (5)
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種々の作品 (6)
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ピアノ合奏曲 (2)
組曲 (2)
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