デュティユー 1916-2013 Dutilleux, Henri
解説:平野 貴俊 (3542文字)
更新日:2014年2月20日
解説:平野 貴俊 (3542文字)
1. 総説
メシアン、ブーレーズと並んで20世紀後半のフランスを代表する作曲家。20世紀後半のフランスでは、1950年代にブーレーズが推し進めたトータル・セリー、東西の音楽遺産を活用したメシアンの斬新な音楽語法が支配的な影響力をふるったが、デュティユーはそのいずれにも与することなく、新鮮で艶やかな独自の音響世界を探究し続けた。比較的早い時期に書かれた《ピアノ・ソナタ》(1947-1948)前後の作品には、しばしばドビュッシー、ラヴェル、フォーレの影響が指摘されるが、デュティユー本人は「フランス音楽」固有のものとされる明快さ、優美といった形容を嫌い、そうした伝統の継承者とみなされることを警戒していた。パリ音楽院の伝統や六人組に代表される新古典主義に反発しつつも、ブーレーズの主催するドメーヌ・ミュジカルやダルムシュタットの講習会といった動きから距離をおいていたことは興味深い。それでもデュティユーは同時代の音楽に関心を持ち続け、音楽祭やコンクールの審査員としてたびたび名を連ねた。デュティユーのこうした好奇心と開かれた態度は、ロストロポーヴィチやスターンといったさまざまな音楽家との交流に結びつき、作品の評価を国際的に高めることにもつながった。1960年代以降、デュティユーの作品は世界各地で演奏され、初演後ほとんど間をおくことなく再演されることも多くなった。《ピアノ・ソナタ》および管楽器のための一連の小品は、音楽大学の試験やコンクールの課題曲として定着し、数々のオーケストラ作品ととともに、いまや20世紀の古典としての位置づけを得ている。
2. 生涯
アンリ・デュティユーは1916年1月22日、アンジェで4人きょうだいの末っ子として生まれた。父方の曾祖父アンリ=ジョゼフ=コンスタン・デュティユー(1807-1865)は画家で、ドラクロワ、コローなどと親しく交流した。現在ルーヴル美術館が所蔵する、ドラクロワの手によるショパンの有名な肖像画は、かつてこの曾祖父が保管していたものである。母方の祖父ジュリアン・コシュルはポーランド系の作曲家、オルガン奏者で、ルベー音楽院院長の座にあった。パリのニデルメイエール校ではフォーレと同窓で、終生フォーレと友好関係にあった。父のポール・デュティユー(1881-1965)と母のテレーズ・コシュル(1881-1948)はともにアマチュア音楽家で、父はヴァイオリン、母はピアノを弾いた。フランク、フォーレ、ルクー、ピエルネ、ドビュッシーのソナタなどをレパートリーとしたようである。
生後ほどなくして家族とともにドゥエーに移ったデュティユーは、ドゥエー音楽院院長ヴィクトル・ガロワに和声、対位法、ピアノを師事する*1 。デュティユーはガロワの助言に従い、地元のオーケストラで打楽器を担当する。《交響曲第1番》(1950-1951)などでティンパニが効果的に用いられているのはそのためである。12歳の誕生日にはドビュッシー《ペレアスとメリザンド》のスコアをプレゼントされた*2。
1933年パリに移り、パリ音楽院に入学。和声をジャン・ギャロン、フーガをノエル・ギャロン、音楽史をモーリス・エマニュエル、指揮をフィリップ・ゴベール、作曲をアンリ・ビュセールに師事する。同級生には、ジャン=ジャック・グリュネンヴァルト、レイモン・ガロワ=モンブラン、アンリ・シャラン、ガストン・リテーズ、マルセル・ランドウスキなどがいる。音楽院在学中、晩年のラヴェルのリハーサルにも接した。1938年、ローマ賞に出品したカンタータ《王の指環》により大賞を受賞。これは彼にとって3度目の挑戦だった。音楽院卒業後はダンディの『作曲法講義』を読みこみ、ストラヴィンスキー、ルーセルの作品を自主的に研究した。
ローマ賞受賞者としてローマに滞在するが、国際情勢の緊迫化のため滞在は4か月で打ち切られ、フランスで1年間兵役に服した。1940年8月に除隊されると、作曲家クロード・デルヴァンクールらが中心となって結成した作曲家グループ「国民戦線」に加わり、ルーマニア出身の作曲家マルセル・ミハロヴィチの仲介により、バルトークや新ウィーン楽派の作品を研究する機会を得た。このころ、パリのオペラ座でシェフ・ドゥ・シャン(コレペティトゥール)として数か月間働いたほか、キャバレーなどで使う音楽を編曲したり、和声と対位法の個人レッスンを行うなどして生計を立てた。また、パリ音楽院院長デルヴァンクールの依頼により、管楽器の試験のための作品をいくつか書いている。
1942年には、パリ音楽院を優秀な成績で卒業したピアニスト、ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(1919-2009)と知り合い、1946年に結婚した。彼女のために書かれた《ピアノ・ソナタ》は、デュティユーにとってのいわば「作品1」であり、彼はそれ以前に書かれた作品の大半をカタログから消去している。破棄された作品の一部は、デュティユーの生前にも演奏、録音が行われていたが、デュティユーは可能な限りそうした機会を減らしたいと考えていた。
1945年には、フランス国営ラジオRTFの付随音楽課課長に就任。当時フランス国営ラジオを主導していたのは、作家、音楽家などの文化人であり、彼らは音と言葉を融合させることでラジオ固有の芸術を創造しようとしていた。こうした実験の一環として、若手を中心とするさまざまな作曲家にラジオ用の音楽が委嘱されていたが、デュティユーはそうした委嘱の実務を取り仕切る役職にあった。作曲活動だけを糧として生活する決意をしたのは、RTFのポストを辞した1963年のことである。
1951年、自主的に作曲した《交響曲第1番》がロジェ・デゾルミエール指揮のもとフランス国立管弦楽団によって初演され、高い評価を受ける。1953年にはローラン・プティ率いるバレエ・ドゥ・パリによってバレエ《狼》が初演される。クーセヴィツキー財団の委嘱による《交響曲第2番「ル・ドゥブル」》は、1959年にシャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団によって初演された。デュティユーが国際的名声を築き始めたのはこのころである。
1961年にはパリのサン・ルイ島へ転居し、エコール・ノルマル音楽院で作曲クラスを受けもつ(1970年まで)。ここでデュティユーに学んだ生徒には、ジェラール・グリゼー、平義久、ルノー・ガニューなどがいる。1970年にはパリ音楽院の作曲クラスでも教えている。1962年には、アンドレ・マルロー文化相が設置した「音楽の問題を検討するための国家会議」のメンバーとして名を連ねている。メシアンとブーレーズがフランス作曲界におけるいわば異端児であったのに対して、デュティユーはフランス音楽行政にも携わりつつ、アメリカの財団から大規模な作品の委嘱を受けていた。こうした立ち位置は、フランスの作曲家としては当時きわめて異例だった。
1995年と1998年には、タングルウッド音楽祭のコンポーザー・イン・レジデンスを務めた。1990年からは、デュティユーの名を冠した作曲コンクールが3、4年に一度、トゥール近郊のサン=ピエール=デ=コールで開催され、これまでにレジス・カンポらが賞を受けている。1997年には、死去する直前の武満徹から依頼を受け、新設された「ネクスト・ミレニアム作曲賞」(現武満徹作曲賞)の第1回審査員として招かれている。また、その創作活動全体に対しては高松宮殿下世界記念文化賞(1994)など数々の賞が与えられ、ロンドン王立アカデミーなどさまざまな団体から名誉あるポストを与えられた。
文学作品や絵画から受けるインスピレーションのほか、数々の世界的音楽家との接触が創作のきっかけとなったことも多い。ロストロポーヴィチ(チェロ協奏曲《はるかなる遠い世界...》[1967-1970]、チェロ独奏曲《ザッハーの名による3つのストロフ》[1976/1982])、アイザック・スターン(ヴァイオリン協奏曲《夢の樹》[1979-1985])、アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン協奏曲《同じひとつの和音による》[2001])、ルネ・フレミング(ソプラノと管弦楽のための《時 大時計》[2006-2009])は、それぞれ各作品の初演者であるというだけでなく、創作に際しての具体的イメージをデュティユーに与えた点で、決定的な役割を果たしている。
2013年5月22日パリで死去。
ーーーーーーーーーーー
*1 ガロワは1905年のローマ賞受賞者で、このときラヴェルは受賞を逃している。
*2 メシアンが同じく《ペレアス》のスコアをもらったのは10歳のときである。
作品(12)
ピアノ独奏曲 (3)
前奏曲 (2)
種々の作品 (6)
動画0
解説0
楽譜0
編曲0
ピアノ合奏曲 (2)