パルムグレン 1878-1951 Palmgren, Selim

解説:小川 至 (1285文字)
更新日:2018年6月14日
解説:小川 至 (1285文字)
セリム・パルムグレン(ポリ1878.2.16-ヘルシンキ 1951.12.13)
フィンランドの作曲家、ピアニスト。パルムグレンはフィンランドの南西部、ボスニア湾沿岸に位置するポリにて、裕福な商家の第五子として生まれた。幼少期から、国外での学習経験も持つ姉のアンニからピアノの手ほどきを受ける。1895年にヘルシンキ音楽学校に進学、カール・エクマンらにピアノを、初代学長であったマルティン・ウェゲリウスに作曲を師事する。その際に触れたフェルッチォ・ブゾーニのコンサートに大きな感銘を受けたことで、彼は第一にピアニストに、「そしてできることならば作曲家にも」(1)なることを決心したという。1901年にはベルリンに渡り、ピアノをフランツ・リストの弟子であるコンラッド・アンソルゲに師事。この間にヴァイマルにてブゾーニによるピアノのマスタークラスも受けた。帰国後の1902年~1903年、そして1905年にはヘルシンキYL合唱団の指揮者に着任する。さらには批評家としてパイヴァレヘティ、ヘルシンキ新聞などへの寄稿活動も行った。1904年にはさらにベルリンでの学習を続け、対位法をヴィルヘルム・クラッテに師事する。1909年からは3年間、トゥルク音楽協会管弦楽団のフィンランド人初の指揮者として就任。その後の1912年からベルリンでの学習を再開した。1921年~1926年まではアメリカに招かれ、ニューヨークのロチェスターにあるイーストマン音楽学校で作曲の教鞭を執った。帰国後、1929年にパルムグレンはヘルシンキ音楽学校にピアノ講師として呼ばれ、1939年にはシベリウス音楽院の初代作曲科教授としての地位を得ている。1945年に新たに設立されたフィンランド作曲家協会の理事に選出され、1947年にはシベリウス基金及び音楽著作権を取り仕切るTEOSTOの会長となった。1950年にはヘルシンキ大学から名誉博士の称号を得るが、翌年1951年12月13日、ヘルシンキにて没する。彼の生地ポリには、1931年に彼の名を掲げたパルムグレン音楽学校が建てられている。
作曲家としてはその大半がピアノ作品によるもので、その大部分を占めるピアノ小品は300作品を超える。またフィンランドにおいてピアノ協奏曲のジャンルを確立した作曲家としても知られており、全5曲のピアノ協奏曲を残している。とりわけ第2番《流れ》は今日においても演奏頻度の高い作品である。20世紀前半、とりわけ1920年代以降のフィンランドの音楽界においては西欧からのモダニズムの影響が顕著であったが、パルムグレンの音楽では多くの場合においては調性を逸脱することなく、様式的にも民族ロマン主義的な姿勢を保っている。しかし、印象主義的な色彩感も感じさせる独特な和声感、あるいは小節線の消失(《24の前奏曲》作品17第19番〈鳥の歌〉)など、独自の先鋭性も時折見られる。
(1) K. Korhonen, P. Kerola-Innala: Selim Palmgren. Elämä musiikissa, WSOY (2009)
作品(19)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (3)
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ピアノ独奏曲 (5)
曲集・小品集 (7)
前奏曲 (2)
種々の作品 (5)
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