ショスタコーヴィチ 1906-1975 Shostakovich, Dmitry Dmitrievich
解説:山本 明尚 (5316文字)
更新日:2023年6月13日
解説:山本 明尚 (5316文字)
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日(露暦9月12日)に生まれ、1975年8月9日に死去した作曲家・ピアニストである。この間には、ロシアが主役となった世界史的な大事件や、ロシア・ソ連の音楽界を変革させた出来事がいくつも挟まっている。1914年に勃発した第一次世界大戦、1917年の二度にわたるロシア革命、第二次世界大戦は人々の生活を根本から揺るがし、それに伴って楽壇の雰囲気や社会における音楽に対する需要が大きく変容した。1917年の十月革命は資本主義社会の崩壊をもたらし、続いて音楽組織・音楽院・出版社の国有化と共産党化政策、1932年4月の「文学芸術組織の再編について」の決議による種々の音楽団体の「ソヴィエト作曲家同盟」への一本化、ショスタコーヴィチがやり玉に挙げられた1936年の「プラヴダ批判」と1948年の「ジダーノフ批判」による弾圧といった出来事が次々と起こった。これらの出来事は、作曲家の人生の大きな転換点となっている。
こうしたそれぞれの事件の歴史的脈絡や意義についてはいまなお議論が続いているが、激動の時代の只中を生きたショスタコーヴィチの生涯と創作の流れもまた、今日に至るまで論争が絶えず、総論としてまとめることも概観することも難しい。したがって、ここでは主にピアノ音楽の創作・演奏に関わる点のみに絞りながらショスタコーヴィチについて述べた上で、彼のピアノ作品を演奏する上で重要と思われる最新の研究資料について触れることとする。
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作品番号だけでも147を数えるショスタコーヴィチの作品の多さや、彼が一時期ピアニストとしても活動していたという事実に鑑みれば、彼が手掛けたピアノ曲の数が少ないことには驚かされる。特にロシアで、19世紀後半から彼に至る時代を代表する巨匠たち――ルビンシテイン、チャイコフスキー、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ――が、多くの優れたピアノ作品を生み出してきたことに鑑みれば、なおさらのことである。これにはおそらく複合的な要因があると思われる。その中には、18世紀以来育まれてきたサロン文化や貴族文化がロシア革命によって瓦解したこと、文化人が家で内々の音楽会を開く「合奏会(ムジツィーロヴァニエ)」の習慣が住まいの集合住宅化政策の実施によって継続困難になったこと、またそれらを起因とする需要の減少など、社会的なものもあれば、ショスタコーヴィチ自身の趣味や彼を囲む音楽家の編成といった周囲の環境、また後に触れる「創作の危機」によるピアノ作品の破棄など、彼個人に起因するものもある。
しかし、数こそ少ないが、ショスタコーヴィチのピアノ作品とピアノを含む室内楽・管弦楽作品には、内容豊かで名作のほまれ高いものも多い。13歳頃に書かれたという《気の塞ぎ》や《ハ長調の小品》などの少年期のピアノ作品や、《8つの前奏曲》作品2(1919, 1921)、《3つの幻想的舞曲》作品5(1922)、2台ピアノのための組曲 作品6(1922)といった学生期の作品からは、人々が彼の才能に惚れ込んだ理由がよく分かる。《ピアノ・ソナタ第1番》作品12(1926)、《アフォリズム》作品13(1927)、《24の前奏曲》作品34(1932-33)は若手としての実験精神をはっきりと示している。《ピアノ・ソナタ第2番》作品61(1942)と《24の前奏曲とフーガ》作品87(1950-51)は、円熟した創作技術と様式観の調和がみられる古典的名作である。2曲のピアノ協奏曲はどちらも違った意味で刺激的な響きを持つ興味深い作品だ。ピアノ三重奏曲第1番作品8(1923)、第2番作品67(1944)、紆余曲折の末スターリン賞を受賞した《ピアノ五重奏曲》作品57(1940)……そして、白鳥の歌となった《ヴィオラ・ソナタ》作品147(1975)にもピアノ伴奏がつく。こうした意味で、ある意味ピアノは彼の人生に寄り添う存在だったといえる。
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多くの作曲家がそうであるように、ショスタコーヴィチの音楽家としての道のりは、父が歌い母がピアノを弾いた家庭での合奏会(ムジツィーロヴァニエ)の鑑賞、母親に連れられて行った観劇の体験(リムスキー=コルサコフの《サルタン王物語》だったとも、チャイコフスキーの《エヴゲーニイ・オネーギン》だったとも言われる)、それから9歳のときに母から受けたピアノ・レッスンから始まった。彼は後に、変ホ長調のモーツァルトのピアノ・ソナタが最初に聴いた音楽である、あるいは「ピアノを習い始めてすぐに作曲を始めた」などと述懐したりしている。
1919年、ピアノと作曲の両方で才能を発揮した彼に、当時ペトログラード音楽院の院長を務めていたグラズノフが目をかけ、音楽院入学の手助けを申し出る。無事に音楽院に入学したショスタコーヴィチは、同じく音楽家を目指す友人たちとの交友を深めながら、ピアノ科(1923年卒業)と作曲科(1925年卒業、のち1930年に大学院修了)で腕を磨く。ショスタコーヴィチのピアノのための創作の大部分は、カリキュラムの都合もあり、この時期に集中している。ショスタコーヴィチが「特に書きたくて書くわけではない。義務だから書くんだ。形式論の課題になってるから」と現存しないピアノ・ソナタについて当時思いを寄せていたタチヤーナ・グリヴェーンコに送った手紙で愚痴をこぼしたように、気乗りせずに書いた曲も多い。そうした曲も含め、初期の楽曲の多くは、1926年にショスタコーヴィチが「創作の危機」に陥ったときに、残念ながら全て焼き捨てられてしまった。このことから、現在ではショスタコーヴィチの少年期、学習期の創作とその成長を追いかけることは難しくなっている。彼自身、自作の多くを破棄してしまったことには後悔していたようで、1956年のエッセーでは次のように回想している。
なぜだか今になっては思い出せないのだが、音楽院を卒業してちょっとの間、私は自分の作曲家としての才能に対する疑いに囚われた。全く作曲できなくなり、「失望」の発作に陥って、ほとんどすべての自筆譜を破棄してしまった。こんなことをしてしまったのを今ではとても後悔している。というのも、焼き捨てた自筆譜のなかには、プーシキンの詩に基づいて書き上げたオペラ《ジプシーたち》もあったからである。
1923年にピアノ科を卒業してからも、ショスタコーヴィチは自作自演や伴奏での活動を盛んに繰り広げた。ピアニスト・ショスタコーヴィチの活動のなかで特筆すべきは、1927年に第1回ショパン国際ピアノ・コンクールに参加したという事実だろう(第1位は友人のレフ・オボーリン、ショスタコーヴィチは名誉賞受賞)。また、1922年に父親が若くして肺炎で世を去り、家計をほとんど一人で支えなければならなくなった都合で1924年冬に始めた映画館での仕事にも、ピアニストとして磨いた腕が活かされた。当初「自分は意志が弱い人間だけど、音楽は別だ。映画館の演奏で参ることはないだろう」と考えていたショスタコーヴィチだったが、月曜日を除いて毎晩数時間演奏しなければならない非常に多忙な仕事は、彼から作曲と演奏会に行くための時間を奪ったのみならず、賃金支払も滞る始末で、最終的に賃金未払いで訴訟沙汰になるほどだった。結局彼はこの仕事をすぐに辞めてしまい、作曲とピアニストの活動にふたたび集中する。
音楽院の卒業作品として1925年に書き上げられた《交響曲第1番》作品10が国内外で大評判になり、ショスタコーヴィチの国際的な名声が高まっていくと、ショスタコーヴィチは徐々に作曲家としての活動に集中しはじめる。これに伴って、彼の中心的な創作領域も、ピアノ曲や室内楽曲から大規模な管弦楽曲や劇作品へと移っていく。
なお、ショスタコーヴィチ自身は、ピアニストではなく作曲家として生きる決断を下したことについて、先に引用したのと同じ1956年のエッセーで、次のように振り返っている。
音楽院卒業後、ピアニストとして生きるか、作曲家として生きるか?という問題が私の前に立ちはだかった。2つ目の選択をとった。正直を言えば、ピアニスト兼作曲家であるべきだったと思う。だが、今そのような断固たる決断を下すには遅すぎる。1930年にはまだ、ピアニストとして公に演奏していた。ソロの演奏会を開いたり、交響演奏会でソリストを務めたりした。1927年にはワルシャワで開かれた国際ショパンコンクールに参加して、名誉賞を受賞した。交響演奏会ではチャイコフスキーの協奏曲第1番、プロコフィエフの第1番、ショパンの協奏曲[第1番と第2番]を演奏した。それでも作曲への傾倒が上回ったので、残念ながらピアノを弾くのは辞めてしまった。それでも、ピアノの訓練はしっかり受けているので、自作自演のピアニストとしてはまだ演奏を続けている。
音楽院から離れてから若手作曲家としての活発な活動に至るまでの時期は、ショスタコーヴィチがレニングラード現代音楽連盟に参加して最先端の音楽に触れ、積極的に無調の技法へとアプローチした時期にもあたる。ピアノ作品はピアノ・ソナタ第1番、《アフォリズム》、《24の前奏曲》、ピアノ協奏曲第1番など少数にとどまっているが、それぞれの楽曲の先鋭的で刺激的な響きは、彼の興味関心を物語る。しかし、この進歩主義的な姿勢は、やはり刺激的な響きを持つオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》、バレエ《清らかな小川》がそれぞれソ連共産党の機関誌『プラヴダ』で公然と指弾され、自己批判を強いられたことによって鳴りを潜めるようになる。
その後、ショスタコーヴィチが本格的にピアノ独奏の分野へと回帰することはなく、ごくたまに取り掛かるにとどまった。その中でも、大作交響曲第7番作品60(1941)、第8番作品65(1943)の傍らに戦時中に書かれた、「大したことのない、即興的作品」と控えめに本人が語る《ピアノ・ソナタ第2番》(1942)や、バッハ没後200年記念祭をきっかけとして作り上げられた大作《24の前奏曲とフーガ》(1950-51)は輝きを放っており、特に後者は彼の代表作の一つであることに異論はないだろう。
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最後に、彼の作品を演奏する上で参考になるであろう資料について述べておきたい。
まず、ショスタコーヴィチの三番目の夫人で未亡人であるイリーナ氏が発起人の一人となって立ち上げられたDSCH出版社から出版されている全150巻を予定している「新作品集」は非常に重要である。刊行ペースは今のところ順調で、109〜113巻のピアノ曲部門はすでに完結を見ている。ムズィカ社のホームページ([https://www.musica.ru/])から”Шостакович фортепиано”(ショスタコーヴィチ ピアノ)などと検索すれば楽譜を注文できる。筆者は2023年現在モスクワ在住のため試したことはないのだが、曰く「ロシア国外にも配達可能」とのことなので、興味のある方は、ロシア語をお読みにならない方も翻訳機などを使いながら試してみてほしい。これらの楽譜を参照するべき理由は、最新の研究状況に応じた批判校訂がされているから、ということだけではない。巻末には普通は見ることのできないスケッチ・自筆譜のファクシミリの一部や最新の研究によって明らかになった楽曲の成立状況、受容、解釈がまとめられており、演奏に際しても貴重な視座を与えてくれる点も重要だ。ロシア語だけではなく英語でも書かれているので、読解のハードルもあまり高くはないはずだ。
冒頭ですでに述べたように、ショスタコーヴィチの生涯と創作を正確に捉えることは、未だなお難しい作業であり続けている。公的な言説と秘密裏の言説、政治的行動と非政治的行動、理解と誤解が縦横に絡み合いながらグラデーションを描く彼の生涯の中で生み出されてきた無数の作品は、常に学者・音楽家・愛好家たちの深刻な悩みの種になっている。ショスタコーヴィチ自身や彼に関する言説や行動について考え、作品について論ずる際には非常に慎重かつ繊細な態度が要求されるということは、学者たちによる最新の研究状況からもよく分かる。2016年に第1巻(1903〜1930年)が刊行され、全5巻を予定しているという『ショスタコーヴィチの生涯と創作の年代記 Летопись жизни и творчества Д.Д. Шостаковича』の作業は、ロシアの第一線のショスタコーヴィチ研究者たちの語るところによると、慎重を極めているらしい。実際に本を紐解くと、彼に関するあらゆる動向が一日ごと、ときには時間ごとに時系列順にまとめられ、しかも学術的な参照・脚注も充実している。第5巻が出るにはしばらく時間がかかるだろうし、全編がロシア語なのが日本の愛好家にとっては難しい点ではあろうが、ショスタコーヴィチへのより正確な理解と作品普及のために、完結が期待される。
作品(29)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (2)
ピアノ独奏曲 (8)
ソナタ (2)
曲集・小品集 (5)
前奏曲 (3)
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リダクション/アレンジメント (1)
種々の作品 (2)
ピアノ合奏曲 (2)
リダクション/アレンジメント (1)
種々の作品 (6)
室内楽 (1)
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