《巡礼の年 第3年》は、同じ題名を持つ先の3つの曲集とは性格の異なる曲集である。創作年代にも間があり、リストの生涯における、いわゆるローマ時代(1861-69)に作曲が開始されている。リストはこの期間に充実した作曲活動を展開しており、その中でも宗教音楽への傾倒を見せている。1862年に完成し、1865年に初演されたリスト初のオラトリオ《聖エリザベトの伝説》や、リスト生涯の傑作であり、「私の音楽による遺書である」と語られた同じくオラトリオの《キリスト》などがある(救世主イエスの降誕から復活までを描くこの作品には、グレゴリオ聖歌の借用及び教会旋法の導入が確認される)。
本作品集の多くは1877年に作曲されている。それまでの経緯を簡単に述べると、1870年頃より、59歳のリストは季節ごとにヴァイマル、ブタペスト、ローマの3都市を住み分ける生活を送るようになる。1886年にリストが亡くなるまで続くこの生活は多忙を極め、しばらく創作活動が滞っている。ブタペストではハンガリー王立学院(今日のリスト音楽院)の学長を務め、自らも指導にあたっていた。だが、自らの作品が「芸術の否定である」と手ひどい批判を受けるなど、周囲からの理解を得られないことに対する諦めもあり、決して成功ばかりではなかった。1877年、66歳になるリストは精神的に深刻な状況に陥っている。この頃、知人のオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)に宛てた手紙には、「絶望的な悲しみに襲われる」など、生きることへの苦しみが綴られている。
この曲集においては、レチタティーヴォを思わせる単音の長いパッセージや不協和音の使用が目立ち、作品の冒頭において調性が曖昧であることが目立つが、これは晩年のリストの様式を示している。
宗教曲が3曲(第1番、4番、7番)あり、その他の作品も哀歌と題されるものがあり、華麗さは影を潜め、強い諦念すら感じられるものとなっている。
前作の《巡礼の年報 第2年イタリア》が出版されたのは1858年だったが、それより大分経った1883年に出版されている。
第1番「夕べの鐘、守護天使への祈り」 / No.1 "Angelus! Priere aux anges gardiens"
タイトルにある夕べの鐘(Angelus!)とは、朝、昼、晩の三度行なわれるお告げの祈り、またその時に鳴らされるお告げの鐘を意味している。このお告げとは受胎告知のこと。本作品は1877年より作曲が始められ、四回の改訂を経て、現在の形になった。関連する作品として、1882年に弦楽四重奏によるもの、及びハルモニウム(オルガン)によるもの(ともに1883年初版出版)がある。
本作品は、冒頭より調性が曖昧で、中々主調が確立されないまま進んでおり、清澄さの中に、どこか不思議さを感じさせる曲調となっている。冒頭部分のトレモロの動機は、重厚な中間部を経て、楽曲の最終部にも現れる。
リストを熱烈に支持し、ピアノ演奏の腕も確かだったオルガ・フォン・マイエンドルフ男爵夫人(1838-1926)宛ての書簡には、「天使の小さい歌を、コージマの長女に書いた」とある。コージマとはリストの次女であり、ヴァーグナーとの結婚を巡って、問題が起こっていた(この時期には不和は解消されていた)コージマ・ヴァーグナー(1837-1930)のことである。その長女のダニエラ・フォン・ビューロー(1860-1940)へ、作品は献呈されている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」 / No.2 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie I"
第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」 / No.3 "Aux cypres de la Villa d'Este - Threnodie II"
タイトルにある「エステ荘」とは、エステ家出身の枢機卿イッポリト2世によって1550年に着工されたベネディクト派の修道院であった。その後、豪華な別荘と美しい庭園に改築された。豊富な水資源を生かし、「水オルガンの噴水」や「ドラゴンの噴水」など大小500の噴水が存在し、現在もティヴォリ随一の観光地として人気がある。
リストはそのエステ荘に1868年よりグスターフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の客人として滞在していた。(なお、1869年から85年まで、冬の間はここで過ごしている。)
またタイトルにある「糸杉」は西洋において死や喪を象徴するものとして音楽に限らず、フィンセント・ファン・ゴッホのように絵画等でも多く扱われている。
本作品を作曲するにあたって、リストがヴィルトーソとして活躍する頃より親交があり、リストの作曲活動を支援し続けたカロリーヌ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン公爵夫人(1819-87)に宛てて、1877年9月23日付の書簡において次のように書いている。「糸杉の下で過ごしているが、他のことが何も考えられないほどに、この古い糸杉の幹のことで頭がいっぱいになって離れない。私は不変の葉の重さに耐えながら、枝が歌って泣くのを聞いた。最終的にそれらを五線紙に書き留めた…」という内容である。
また本記事の冒頭に引用したマイエンドルフ男爵夫人に宛てた書簡(「絶望的な悲しみに襲われる」)もこの作品の成立と関与していると考えられている。
第2番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第1)」は、重々しい四度の連続から始まり、陰鬱な雰囲気に満ちた作品。
第3番「エステ荘の糸杉に寄せて-葬送歌(第2)」も同様に力強いが陰鬱さを持った動機から始まり、途中ハンガリー風の旋律を経て、流麗な旋律へと姿を変える。
第4番「エステ荘の噴水」 / No.4 "Les jeux d'eaux a la Villa d'Este"
前に二曲に続いて、エステ荘に関する作品(エステ荘に関しては、前曲の解説を参照のこと)。リスト晩年の作品の中でも最も有名で演奏機会も極めて多い。水をあらわす繊細な動きと朗々とした旋律の明るい作品。しばしば後の印象主義の音楽、例えばモーリス・ラヴェル(1875-1937)の《水の戯れ Jeux d'eau》(1901)やクロード・ドビュッシー(1862-1918)の《水に映る影 Reflets dans l'eau》(1904~05)を先取りしたと言及されている。
曲の半ばには、ヨハネ福音書より引用された「わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(新共同訳より)との標題がある。
第5番「哀れならずや-ハンガリー風に」 / No.5 "Sunt lacrymae rerum"
原文のタイトルSunt lacrymae rerumはラテン語で、忠実に訳すと「人の世に注ぐ涙あり」となる。
娘コージマとの結婚を巡って問題の生じていたリヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)との和解が成立した1872年に作曲された。もともとは1848-49年に起きたハンガリーの革命の犠牲者へ捧げた《ハンガリー哀歌》という作品。現在の曲名は、古代ローマの詩人ヴェルギリウスの未完の大叙事詩『アエネーイス』の第一歌四六二行より採られている。
前曲とは打って変わって、本作品は重さと暗さに満ちており、一部にハンガリー旋法が用いられている。
第6番「葬送行進曲」 / No.6 "Marche funebre"
1867年6月19 日に処刑されたメキシコ皇帝マクシミリアン1世の為に作曲された。ローマ時代にあたり、《ハンガリー戴冠式ミサ》の初演やリヒャルト・ヴァーグナーと絶縁のあった1867年に作曲。本作品集の中では最も早く作曲された曲である。
マクシミリアン1世(1832-1867)は、ハプスブルグ家の出であり、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)の弟でもあった。ナポレオン三世によりメキシコの皇帝に据えられたマクシミリアンは当初より地位が不安定だったが、フランス軍の撤退とともに急速に力を失い、捕縛されて銃殺刑に処された。このことはヨーロッパ中に衝撃を与えたとされている。
第7番「心を高めよ」(スルスム・コルダ) / No.7 "Sursum corda!"
作品のタイトルSursum cordaとは、ミサにおける叙唱の前に為される司教と会衆の応答の言葉。属音の静かな連打で始まる本作品は、全音音階(1オクターヴを全音で6等分する)が用いられている。曲名から想起されるように崇高な印象を与える作品である。