
解説:川端 美都子 (1398文字)
更新日:2024年1月21日
解説:川端 美都子 (1398文字)
アルベルト・ヒナステラは、ラテンアメリカで最も影響力のある作曲家の一人である。7歳からピアノを中心とした音楽教育を受けたヒナステラは、12歳でウィリアムス音楽院に入学し、音楽理論、ソルフェージュ、和声、作曲を学ぶ。成績優秀であった彼は、両親の願いもあり、14歳の時にブエノス・アイレスの名門高校でビジネスも学んでいる。19歳の時、作曲で金賞を取り、ウィリアムス音楽院を卒業すると、今度はブエノス・アイレス国立音楽院で和声、作曲、対位法を学ぶ。在学中から若き国民的作曲家として知られたヒナステラは、29歳の時にグッゲンハイム奨学金を得て渡米する(第二次世界大戦のために約3年間の延期後のことであった)。この後、ヒナステラは徐々に活躍の場を国際的に広げ、1970年代には二度目の結婚を機にスイスのジュネーヴに居を移す。1981年頃から健康上の理由で入退院を繰り返していたが回復は叶わず、1983年6月25日にその生涯を閉じる。これは、祖国アルゼンチンが軍事政権から民政移管を果たす、わずか数か月前のことであった。
彼の作風の特徴は、アルゼンチンを中心とした南米の民俗音楽的要素と、当時の現代音楽的書法との組み合わせである。特に初期作品には、大平原パンパの情景や、同地を縦横無尽に馬で駆け巡っていたとされる牧童ガウチョの表象と共に、様々な地方音楽が直接的、または間接的に用いられている。なかでも、セスキアルテーラsesquialtera(2拍子系と3拍子系のリズムが同時に存在するヘミオラのようなもの)と呼ばれるリズム的特徴や、ギターの開放弦と同じ音列(E-A-D-G-B-E)の使用が顕著である。国際的な活躍を積極的に展開していた時期には、自ら「地方音楽の時期は過ぎ去った」と語ったように、ヒナステラは民俗音楽的な要素から徐々に距離を取るようになる。しかし、スイスへの移住後、厳しい軍政下で様々な自由が奪われていく祖国に郷愁を募らせた晩年の作品には、抽象化された形で再び南米の音楽的要素が立ち現れてくるようになる。
ヒナステラを語るうえで重要なのは、作曲家としての功績だけではない。その人となりである。常に新しい想像力と創造性を探求していたヒナステラは、家庭でも「素晴らしいもの」に触れることの重要性について語っていた。それは、教育者としての姿勢にも通じている。1950年代には既に、両アメリカ大陸を代表する作曲家として知られていたヒナステラは、1961年にロックフェラー財団が出資した、トルクァト・ディ・テラ大学内のラテンアメリカ音楽センターの設立に尽力する。ヒナステラはかねてより、ラテンアメリカの才能ある若い作曲家たちに、最新の作曲技法を教え、多様な文化的かつ創造的視点を与える必要性を感じていた。1963年に同センターの所長以外の職を辞して、後進の育成に勤しんだヒナステラは、個人的にも親交があったコープランドや、クセナキス、メシアンなどの作曲家たちをゲストとして呼び、まさに若者たちが「素晴らしいもの」に触れられるようにしていったのである。こうしたヒナステラの普段の顔について、今は亡きジャーナリストのアベル・ロペス・イトゥルベ氏は、懐かしそうにこのように語っていた:「ヒナステラは言葉数が少なく、でしゃばらない人だった。」そして、そのヒナステラが常に伝え続けていた言葉についても教えてくれた。
執筆者 : 瀬田 敦子
(689 文字)
更新日:2019年11月29日
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執筆者 : 瀬田 敦子 (689 文字)
Alberto Ginastera(アルベルト・ヒナステラ)は1916年アルゼンチンのブエノスアイレスに生まれた。7歳より音楽を習い始め、ウィリアムス音楽院を経てブエノスアイレス国立音楽院に入学。ドビュッシー、ファリャ、バルトークなどの作品に影響を受けつつも、アルゼンチンをテーマにした独自の作品を次々に発表した。中でも バレエ《パナンピPanambi》の初演は大成功を収め、1941年にはアルゼンチンの農村やそこに住むガウチョの日常生活を題材にしたバレエ《エスタンシアEstancia》を作曲、その管弦楽組曲版はヒナステラの代表作となっている。その後アメリカに留学、自作のアメリカ初演も果たし、1951年には初めてヨーロッパに渡り、活動範囲を世界へと広げていく。一方、アルゼンチンではラテンアメリカ音楽高等研究センターを創立し、中南米の若い音楽家を育成した。晩年はスイスのジュネーヴに移住し、さらに活発な作曲活動を続けるが1983年、67歳で帰らぬ人となった。 さて、ヒナステラ音楽の魅力とは?ヒナステラが若い学生に良く語っていた「自ら壁を作ってはいけない」という言葉どおり、その音楽には、困難な壁があればぶち壊してでも前進するようなすごいエネルギーがある。一方、繊細で表情豊かな旋律は心を傾けて聴きたくなるし、多彩なリズムと躍動感は踊りだしたくなるくらい身体も心もワクワクさせてくれる。 20世紀の作曲家として、前衛的な技法を縦横に使いこなし、自由自在に、痛快なまでのテクニックに挑戦したヒナステラ。もしかしたら、どんなにむずかしくても弾きたくなる魔力があるのかもしれない。
解説 : 樋口 愛
(537 文字)
更新日:2007年10月1日
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解説 : 樋口 愛 (537 文字)
1916年ブエノスアイレス生まれ。1928年ウィリアムス音楽院に入学し、音楽理論、ソルフェージュ、ピアノ、和声、作曲を習う。1936年から国立音楽院にてパルマに和声を、ヒルに対位法とフーガをアンドレに師事。1937年バレエ音楽《蝶Panambi》で名声を上げた。1945年渡米して自作曲の演奏会を開くなどし、また、作曲の後進の指導にもあたった。1961年に第二回インターアメリカ音楽祭で印象的な作品(作品名を挙げる)の初演。名声がさらに高まった。以後、多数の委託作品をアメリカから受けており、ラテン・アメリカの若い音楽家達に影響を及ぼした。
彼の作風は三つの時期に分類される。第一期の作品(客観的民族主義時代)では、アルゼンチンの風土や国民性を意識しつつも、直接民謡の旋律やリズムを用いることはなかった。第二期(主観的民族主義時代)では第一期とは逆に、音楽表現の要素として、祖国のリズムや旋律を積極的に取り入れた。1952年の《ピアノ・ソナタ第一番》に、この時期の表現方法がうかがえる。第三期(新表現主義時代)では、十二音技法を取り入れ、多調性、微分音の複合体、偶然性による手法なども試みた。
彼の作品には、ピアノ曲の他、バレエ、協奏曲、室内楽曲、グランド・オペラ、などがある。
作品(16)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
ピアノ独奏曲 (8)
ソナタ (3)