ショパンのピアノ・ソナタ第1番は、彼がまだエルスネルのもとで学んでいた1827~28年に作曲されたと考えられ、エルスネルに献呈された。
1828年にショパンは、「手を取り合って(お手をどうぞ)」による変奏曲をOp.2、ソナタをOp.3(自筆譜にはこの番号が書かれている)としてライプツィヒの出版社に楽譜を送ったが結局出版されず、この2曲にドイツ民謡による変奏曲をOp.4として加え、今度はウィーンのハスリンガーに楽譜を送った。しかしここでも1830年にOp.2が出版されたのみであった。
しばらく経った1839年頃にハスリンガーは、ショパンにソナタの試し刷りを送ってきたものの、年月が過ぎてから突然出版しようとした事を不快に思ったショパンは校正を返送しなかったという(ショパンは1839年の書簡で「昔のソナタが出版されてドイツ人たちから称賛されていると父が伝えてきた」旨を書いている他、1845年の書簡で出版社が楽譜を送ってきたのを「数年前」と書いている。僅かに楽譜は出回ったのかもしれない)。
正式にソナタが出版されたのはショパン没後の1851年で、既にOp.3の番号は序奏と華麗なポロネーズに当てられていたため、ソナタにはOp.4が付され、同年、ドイツ民謡による変奏曲も作品番号なしで出版された。
この曲は、まだソナタを書いたことのないショパンが師の指導で作曲を試みたものの型に嵌められて個性を発揮できなかった習作、と評されることが多い。実際スタイルやピアニズムの点から見てもショパンの作品中異色の存在となっているのは事実だし、作曲技術の面でも、例えば第1、4楽章の展開等に弱さが見られるのも否めないだろう。その一方、この曲を作った時点でショパンの個性が強く表れた作品も発表されている点、そうした作品と共に、出版の意図がショパン自身にあった点、第1楽章での調構成や第3楽章の拍子などに習作とは考えにくい特異性が見られる点等を考慮し、意図的にこれまでとは異なったスタイルで書こうとした、と解釈する向きもある。そして音楽的な内容については評価する人もいるため、この曲に対する正当な評価はより困難と言えるだろう。
なお、自筆譜のみがオーセンティックな原典資料であるが、臨時記号やダイナミック等において解釈の分かれる箇所があり、初版、ミクリ版、パデレフスキ版、ヘンレ版、ナショナル・エディション等で細部に違いがある。