マティアス 1826-1910 Mathias, Georges
解説:林川 崇 (1297文字)
更新日:2024年11月19日
解説:林川 崇 (1297文字)
ジョルジュ・マティアスは、少年時代にカルクブレンナーとショパンにピアノを師事していた。原則子どもは教えなかったショパンにとって、これは夭折したカール・フィルチュと並ぶ例外である。1839年にパリに演奏旅行に出たクララ・ヴィークは、そこでマティアスをレッスンすることになっていたが、演奏を聴いてその完成された演奏にクララが驚嘆し、レッスンをせずに連弾をしたりして過ごしたという。クララがそのことを父フリードリヒ・ヴィークに伝えた書簡には、マティアスについて「第2のリスト」「彼に先生は必要ない」と書かれていることからも、その神童ぶりは窺えよう。その翌年、マティアスはベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」Op.97とウェーバーの「コンツェルトシュトゥック」Op.79を弾いてデビューしたが、この時「大公」でヴァイオリンを弾いたジャン=デルファン・アラール(1815~1888)と、チェロを弾いたオーギュスト=ジョセフ・フランコム(1808~1884)は、ショパンとトリオを組んでいた人でもあった。なお、アラールとフランコムは、後にアルカンやフランシス・プランテ(1839~1934)ともトリオで演奏している。
マティアスのピアニストとして特に重要な業績としては、1864年3月14日に行われたロッシーニの「小荘厳ミサ曲」(2台ピアノとハルモニウムによる伴奏の原典版)の初演で第1ピアノを弾いたことが挙げられる。
マティアスは1862~87年にパリ音楽院の教授を務めており、その間に多くの弟子を育てたため、ショパンの伝統を後世に伝えた存在として、カール・ミクリ(1821~1897)と並んで重要視されている。そのため、弟子の一人ラウール・プーニョ(1852~1914)が演奏したショパンの録音は、その演奏の質の高さのみならず、正統的なショパン演奏を現代に伝えるものの一つとしても極めて高く評価されている。他にマティアスに師事したピアニストとして重要な人物には、やはりパリ音楽院の名教授となったイシドール・フィリップ(1863~1958)や、少女時代にゴットシャルクに師事していたテレサ・カレーニョ(1853~1917)、後にパデレフスキにも師事したアーネスト・シェリング(1876~1939)等がいる他、デュカスやサティもピアノをマティアスに師事した。
ピアニストとしてデビューした後、マティアスは1842年にパリ音楽院の作曲科に入り、アンリ・モンタン・ベルトン(1767~1844)や、オペラ「ユダヤの女」で知られるジャック=フロマンタル・アレヴィ(1799~1862)に師事した。そのためマティアスの作品には、ショパンの弟子としては珍しく交響曲や宗教曲も含まれるが、多くはピアノ曲で(他にピアノ三重奏曲や歌曲もある)、ソナタや練習曲集の他、ブルクミュラーに献呈された「カプリス=ポルカ」Op.40(被献呈者の名前からは想像もつかないであろう技巧曲)や、コルトーやラヴェルがパリ音楽院の試験で弾いた「交響的アレグロ」(ラヴェルの伝記において、試験で弾いた曲として言及されることがある)等の作品がある。
作品(4)
ピアノ独奏曲 (2)