解説:藤田 真優 (5626文字)
更新日:2026年10月28日
解説:藤田 真優 (5626文字)
1. 誕生、神童としてパリへ
1829年5月8日、ルイ=モロー・ゴットシャルクはアメリカ、ルイジアナ州のニューオリンズに生まれた。父エドワードはロンドンに生まれ、ケンブリッジ大学で学位を取得後、1820年代初頭にはニューオリンズに移住していた。母マリー=エメ(旧姓ブリュレ)はハイチからルイジアナに逃れたカトリック系の家庭の出身であった。ゴットシャルクは、幼少期はポンチャートレイン湖畔の自然の中で過ごし想像力を育んだ。インディアンの歌やクレオールの伝説に触れ、3歳ですでにピアノでその旋律を奏でようと試みるなど、早くから音楽的才能を示していた。5歳からはサン=ルイ大聖堂のオルガニスト、フランソワ・ルテリエに師事する。師の助言を受け、ゴットシャルクは1841年にフランスへ渡り、チャールズ・ハレ(1819–1895)、次いでカミーユ・スタマティからピアノの手ほどきを受けた。パリ音楽院に入学を志願するも、(ゴットシャルクによると)アメリカに対する文化的偏見からピアノ科の有力な教授ピエール=ジョゼフ=ギヨーム・ヅィメルマンにより拒否された。
2. パリでのデビュー
1845年4月2日、プレイエルのサロンでデビュー・コンサートを行った。ショパンの《ピアノ協奏曲第1番》とタールベルクの《「セミラーミデ」による幻想曲》、リストの《悪魔のロベールの回想》を演奏し、好評を博した。作曲は、同じスタマティ門下のサン=サーンスも師事したピエール・マルダン(1800–1871)から指導を受けた。初期にはすでに、地域色溢れる《バンブーラ》作品2や《サバンナ》作品3、《バナナの木》作品5、詩的で繊細な《オシアン》作品4、軽い作風の《金の首飾り》作品6や《刈り入れの人々》作品8など様々な性格的な作品に取り組んでいる。自作曲は彼自身のリサイタルでも演奏され、その異国情緒に満ちた作品群は高い人気を得た。それらは、フランスの人々が新大陸に対して抱いてきた、文明化していない理想郷[1]というイメージと強く結びつけられた。
1848年にゴットシャルクと出会ったアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルは彼の印象を次のように語っている。「彼の上品で控えめな気質は、何より好感の持てるものであった。その表現豊かな演奏とショパンを想起させる響きは、聴衆の心をすっかり惹き込んだ[2]」。ゴットシャルクの演奏は、その神経質で貴族的な性格と細く儚げな容貌と相まって、たびたびショパンと比較された。
3. スイスとスペインでの成功
1850年の夏にはスイスで演奏を行い、大成功を収めた。その翌年にはスペインへ赴き、長期のコンサート・ツアーを行った。熱烈な支持者となったイサベル2世の庇護のもと、ゴットシャルクはスペイン音楽界のアイドルとなった。スペイン滞在中に作曲した有名な作品として、《ホタ・アラゴネーズ》作品14や《アンダルシアの思い出》作品22がある。《ホタ・アラゴネーズ》は、クリストバル・ウードリッドの管弦楽曲《サラゴサ包囲戦》で一躍人気となった〈アラゴンのホタ〉をもとに書かれている。この旋律は約10年後にリストが《スペイン狂詩曲》で、さらに1880年にはサン=サーンスが管弦楽曲に取り入れることとなる。《アンダルシアの思い出》では、1840年代にバレエ音楽をきっかけに流行したハレオ・デ・ヘレスが楽曲の大半を占めている。それぞれ既存の旋律を取り入れた、色彩豊かなピアノ作品に仕上げられている。
4. アメリカへの帰国
フランスに短期間滞在した後、ゴットシャルクは1853年1月にニューヨークに到着した。翌月に行ったコンサートでは自作品を中心にプログラムが組まれ、輝かしい演奏で聴衆の熱狂を引き起こした。ルイジアナ出身の若きピアニストの到来は、アメリカの音楽史における記念すべき一日として記憶された。『ホーム・ジャーナル』の記者は彼の演奏と観客の反応を次のように記している。
彼の演奏は、まさに大衆の趣味におそらく最もよく合致する。その効果は力強く、圧倒的である。彼は、まるでミュラ[3]が敵に突撃するように激しくつかみにかかり、その秘めたる可能性を余すところなく使いこなす。彼の演奏は、オーケストラのような響きと、独奏楽器の音調の変化を兼ね備えている。聴衆を熱狂させ、興奮させることのできるピアニストは、彼以外にはいない。彼は大衆の騒乱時に演説がもたらすのと同じ種類の、同じ程度の効果を生み出すのである。これは誇張ではなく、彼の演奏を聴いた人なら誰でも証言するだろう。これは紛れもない事実である。 他の著名なピアニストと比較した彼の実力について、冷静な評価を下すことはできない[4]。
しかしながらアメリカでの演奏活動は、ヨーロッパ諸国でそれを行うほどには経済的な成功は見込まれず、同年10月に父親が死去すると、家族を養うためにコンサートの頻度を増やさなければならなくなった。その後、彼の人生の多くは旅に費やされ、生涯を通じて結婚をすることも、パリに住む母親とも再会することはなかった。
3年間はキューバで過ごし、アメリカの大衆的な趣味を反映させた作品を出版した。1857年の2月には、有名なソプラノ歌手アデリーナ・パッティ(1843–1919)とともにハバナでの演奏ツアーを行った。劇場文化が盛んなハバナにあって、ゴットシャルクの華麗な演奏スタイルと魅力的な人柄は文化人たちに気に入られた。後に作曲された《ハバナの思い出》作品39はハバネラのリズムをベースに書かれており、メランコリックな前半部分と躍動的な後半部分の対比が特徴的である。
5. 中米諸国での演奏活動
1857年からは、ゴットシャルクはプエルト・リコやグアドループ、マルティニーク、キューバなど、カリブ海のアンティル諸島で過ごした。オペラの作曲や、アメリカとフランスの雑誌への寄稿にも取り組んだ。1860年にはキューバで音楽祭を開催し、自作の《交響曲第1番「熱帯の夜」》を上演した。「ロマン的交響曲」との副題が付されたこの作品は、2つの楽章で構成されており、第2楽章にはサンバが取り入れられている。
アンティル諸島に身を置いた5年間には、現代でもたびたび演奏される《プエルト・リコの思い出》作品31やハバネラのリズムで書かれた《ダンス》作品33、〈ケンタッキーの我が家〉をアレンジした《コロンビア》作品34、《子守歌》作品47、など優れたピアノ曲を作曲した。
1860年代に入りキューバで独立運動が激化すると、ゴットシャルクは独立派に賛成した。しかし興行主マックス・ストラコシュ[5](1835–1892)の説得によりアメリカでのツアーの契約が成立し、1862年には再びニューヨークの地に戻った。
6. アメリカでの演奏旅行
1862年からの3年間、ゴットシャルクはアメリカで過密なスケジュールでの演奏活動を続けた。聴衆の中には、大統領に選出されたばかりのエイブラハム・リンカンも含まれていた。1863年には、後にアメリカ国家となる〈星条旗〉を含む複数の愛国歌を取り入れた演奏会用パラフレーズ《ユニオン》作品48を作曲した。フランスの音楽雑誌『音楽芸術』に寄稿した「あるピアニストの旅の思い出」では南北戦争の混乱についても記述し、愛国的なムードに相応しい《ユニオン》が大喝采を持って迎えられたことを記している[6]。ゴットシャルクは弟子を受け入れることはほとんどなかったが、ニューヨーク滞在中には、ベネズエラ出身の若き女性ピアニスト、テレサ・カレーニョを何度か指導した。カレーニョは1863年に《ゴットシャルク・ワルツ》作品1を作曲して彼に献呈し、1866年にはパリのサル・エラールでゴットシャルクの《トロヴァトーレのミゼーレ》作品52を演奏している。
しかし1865年9月、サンフランシスコ近くの神学校に通う2人の女学生を誘惑したとの疑惑がかけられ、告発された。友人たちの協力によりその嫌疑は晴らされたものの、アメリカからの逃亡を余儀なくされ、その後は南米を活動の中心とすることになる。
7. 南米での活動と最期
ゴットシャルクの生涯の最期の4年間は南米でのコンサート・ツアーで埋め尽くされた。1865年10月にはパナマでリサイタルを、翌月にはペルーの首都リマで7度の公演を行った。1866年4月に到着したチリには約1年滞在し、翌年11月にはブエノスアイレスでデビューを果たした。ウルグアイの首都モンテビデオでも複数回のコンサートを行った。南米各地の音楽活動を支援し、さらには共和政への支持を示したため、汎アメリカ的な文化人として象徴的な存在となった。1869年に移ったリオデジャネイロでは大規模なコンサートを企画し、そこで演奏した自作の《ブラジル国歌に基づく勝利の大幻想曲》作品69は皇帝と国民を大いに沸かせた。しかし11月26日のコンサートで演奏している最中、ゴットシャルクは突然演奏を止め、その場に倒れ込んだ。容態は数日経ってもよくならず、12月8日には田舎町のテジュカへ移送された。だがその10日後、家族との再会も果たせぬまま、孤独の内に息を引き取った。最後に演奏していた曲は、偶然にも自作の哀歌《死》作品60であった。
ゴットシャルクの葬儀は盛大に執り行われ、会場は悲しむ人々で溢れかえっていたという。彼の死は遠く離れたフランスでも報道され、そのあまりにも早い別れに多くの人が心を痛めた。ゴットシャルクはいつかフランスを再び訪れることを望んでおり、フランスの音楽家たちもまた、彼との再会を待ちわびていた。彼の妹クララから悲しみの知らせを受けたレオン・エスキュディエ(1815–1881)は、『音楽芸術』の記事でその死を悼み、ゴットシャルクの人物描写を次のように締めくくっている。
ゴットシャルクにとって鍵盤は、ヴェネツィアのパレットであり、歌手の喉であり、音楽的で詩の色を帯びた言葉である。今後その鍵盤は、音を鳴らすことはないだろう。彼はショパンのように詩的で、リストのように勇敢で、タールベルクのように優雅であった[7]。
亡くなった4年後にはプレイエルのサロンで、クララが2度のリサイタルを行った。兄の書いたいくつもの作品を、深い情を込めて演奏した。
ゴットシャルクの残した作品は、いくつかの交響曲とオペラを除いて、ほとんどがピアノ曲である。彼の友人でもあったマルモンテルは、その作品について次のように表現している。
ゴットシャルクの作品には、主題の多様性も、スタイルの独創性も、何一つ欠けたところがない。作曲家として、そしてヴィルトゥオーゾとして、彼は近代芸術の巨匠たちと肩を並べるにふさわしい存在である。彼の際立った個性は、同時代の人々の記憶に深く刻まれた。ゴットシャルクを高く評価した人々は皆、彼に深い愛情と敬愛の念を抱いていた[8]。
アメリカ大陸の多彩な伝統や風土に着想を得るとともに、パリの音楽文化の中でその才能を磨いたピアノの名手ゴットシャルクは、今もなおアメリカ音楽史において重要な地位を占め続けている。しかし一般的な西洋音楽史における彼の位置づけは、その個性豊かな作品群と詩情豊かで華麗な演奏に見合うものではない。ゴットシャルクの真価は、南北アメリカ大陸を巡った旅するヴィルトゥオーゾとしての活躍にとどまらず、鋭い美的感覚と独自の創造性を備えた作曲家としても、改めて評価されるべきであろう。
[1] とりわけゴットシャルクが育ったルイジアナは、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの『アタラ』(1801年刊)や『ルネ』(1802年刊)でも描かれている。かつてフランス領であったこの地域は、ヨーロッパの文明とは異なる自然や先住民の風俗を通じて、原始的な世界への憧れを喚起する場所として表象された。一方で19世紀前半にアメリカは経済的にヨーロッパから自立し、30年代には、ジャクソン大統領のもと民主主義を発展させた。フランスでも『アメリカのデモクラシー』(1835年刊)を執筆したアレクシ・ド・トクヴィルのように、平等の精神に基づくアメリカの民主制に、ヨーロッパの未来を見出す思想家が現れた。
[2] Antoine-François Marmontel, Les pianistes célèbres : silhouettes et médaillons, Paris, Heugel et fils, 1878, p. 138.
[3] 革命軍とナポレオン軍で活躍したフランスの軍人ジョアシャン・ミュラ(1767–1815)を指していると考えられる。
[4] 『ドワイト音楽雑誌』の匿名の記者が引用した、『ホーム・ジャーナル』の批評の一部から引用。
Anonym, “Gottschalk”, Dwight’s Journal of Music, vol. II, no. 20, February 19, 1853, p. 158.
[5] 兄モーリスも音楽興行主であり、アデリーナ・パッティのマネージャーを務めた。モーリスはアデリーナの姉アマリアと結婚した。
[6] Louis-Moreau Gottschalk, « Souvenirs de voyage d’un pianiste », L’art musical, Vol. III, no 38, 29 août 1863, p. 300.
[7] Léon Escudier, « Mort de Gottschalk », L’Art musical, vol. X, no 9, 27 January 1870, p. 67.
[8] Marmontel, op. cit., p.146.
作品(33)
ピアノ独奏曲
リダクション/アレンジメント (4)
種々の作品 (16)
ピアノ合奏曲
