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ミヨー :コラール(パデレフスキをたたえて)

Milhaud, Darius:Choral en l’honneur d’Ignace Paderewski (Homage to Paderewski)

作品概要

楽曲ID:77030
出版年:1942年 
初出版社:Boosey & Hawkes
楽器編成:ピアノ独奏曲 
ジャンル:種々の作品
総演奏時間:2分00秒
著作権:保護期間中

解説 (1)

解説 : 西原 昌樹 (3516文字)

更新日:2021年7月12日
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ブージー・アンド・ホークス社刊のピアノ曲集『パデレフスキをたたえて』(Homage to Paderewski / 1942年刊)所収(作品番号なし)。本作とは別に、ミヨーにはピアノソロ用にもう一つ未刊の「コラール」(Op. 111)がある(1930年作。副題「レイモンド・リノシエの思い出に」à la mémoire de Raymonde Linossier)。本作と混同している例があるので注意したい。本作は1941年5月24日、オークランドにて完成。4分の5拍子、Modéré(中庸に)、1ページの小品である。典型的な多調の書法が採られ、両手が異なる調の和弦を同時に奏する。ただし、ここでの多調は、あくまでも厳粛な思いを表現するための手段である。不協和音の創出自体をことさらに意図するものではない。

『パデレフスキをたたえて』に作品を提供したのは、当時アメリカまたはカナダに在住していた17名の作曲家たちである。よく知られたところでは、バルトークアーサー・ベンジャミン、ベンジャミン・ブリテン、カステルヌオーヴォ=テデスコグーセンスマルティヌーミヨー、ホアキン・ニン=クルメル、ヴィットリオ・リエティが挙げられる。そのほかは Theodore Chanler, Richard Hammond, Felix Labunski, Karol Rathaus, Ernest Schelling, Zygmunt Stojowski, Jaromir Weinberger, Emerson Whithorne であった。後世の知名度は別として、いずれも音楽史に確かな足跡を残した者たちである。曲集の歴史的意義の高さは疑う余地がない。ところが、『パデレフスキをたたえて』は初版が出たきり、省みられる機会がきわめて少ない状態に長く置かれることとなった。個人的にとりわけ皮肉に思われるのは、「ピアノソロの小品を」との委嘱内容を勘違いしたブリテンが提供した2台ピアノの作品(悲歌的マズルカ Op. 23-2)が曲集に収載できずに単独で刊行され、かえって順当に増刷を重ね、ブージーのカタログから落ちることのなかった事実である。他の作曲家たちの作品がブリテンに比べて何ら見劣りするところがないことはいうまでもない。

ブージーは2014年にようやく『パデレフスキをたたえて』の改訂新版を刊行した。米国出身のポーランドの音楽学者、ジョセフ・ハーター(Joseph A. Herter)の解説が付いたうえ、私見では初版に何ら不足はないと思われる譜面がわざわざ新たに浄書し直されている。解説では、現代の観点から曲集の意義が論じられ、出版の主体であったパデレフスキ記念基金の活動内容と具体的な収支、1942年2月17日にサミュエル・バーロウ(作家、作曲家)のニューヨークの私邸でおこなわれた初演の記録、各曲の梗概が紹介されている。ミヨーの本作はホアキン・ニン=クルメルが弾いたとの由である。そのいっぽうで、初版に掲載された米国外交官ヒュー・ギブソン(Hugh Gibson)とパデレフスキ記念基金(The Paderewski Testimonial Fund)による序文が、新版では一切省かれてしまった。初版に序文が存在したことさえ言及されていない。ギブソンは駐ポーランドの初代米国大使で、ポーランド首相(兼外相)であったパデレフスキと直接外交交渉を持ち、戦後は核軍縮にも尽力した人物である。パデレフスキをひたすらに偉人と祭り上げるのではない、対等の立場で渡り合った者の肉声は量り知れない重みを持つ。ブージーの新版は、根本のところで先人たちの営為への敬意に欠いたものと断じざるを得ない。将来的に初版の全体が電子的に共有されることもあろうが、ブージーが切り捨てた初版の序文をここで拙訳にてご紹介しておきたい。

序 文

最近、私はパデレフスキの思い出を正しく言い表す言葉を見つける難しさについて話をした。その翌日、パデレフスキに最も近しかった親友の一人が、私に次のような一節を送ってくれた。

――― 私は、逝去した指導者の喪に服するためにここに来たのではない。あなたがたと共に、不滅の精神の光と偉大さを祝福するために来たのである。私は、ここに弔辞を読み上げに来たのではない。人類で最も高貴で純粋な一人への畏敬と愛を捧げに来たのである ―――

これはまるで、パデレフスキの霊前で語られる言葉のようだ。パデレフスキの高貴で率直な人柄を忠実に反映しているのだから。しかしこれは、ウッドロー・ウィルソン大統領の葬儀でパデレフスキが語った言葉なのである。

パデレフスキに会ったことのない人にパデレフスキを説明しようとするとどうしても、ほとんど人間離れした完全な人だという印象を与えてしまう。すると、その人物像は全くの偽りになる。なぜなら彼以上に人間らしい人はいないのであるから。もちろん彼は音楽家として最も広く知られるが、彼の天分を表すのに音楽家という一つの言葉では足りない。もしも音楽家でなかったなら、彼は数学者、演説家、歴史学者、あるいは古典主義者として有名になっていたかもしれない。どの一つでもただ者では終わらなかっただろう。しかも、彼が間違いなく歴史に名を残すだろうと思われるのは、彼の天分によってというよりは、彼の献身と自己犠牲、つまり人間の資質の中でも最も人間的なものによるのだということを言っておきたい。

彼の友人たちは彼との思い出を大切にするが、それは彼が天才であったからではなく、利他的な友情を示す彼のたぐいまれな包容力のゆえである。おそらく彼の人生での何よりの喜びは、彼の友人たち、とりわけ仲間の音楽家たちを助ける中にあっただろう。彼の広い交友には多くの現代の作曲家たちとの友情があったが、そうした仲間の一人を助ける時ほど彼が幸せを感じることはなかった。作曲家たちが彼に助けを求めて聞き入れられなかったことは一度もない。

作曲家たちがパデレフスキとの思い出をそれぞれに称えたいと望むのは当然のことである。パデレフスキは作曲を芸術の最上の表現ととらえていたから、楽曲を捧げること以上に彼が価値を認める称賛はない。

パデレフスキの米国デビュー50周年を祝おうとしていた今この時、現代の多数の優れた音楽家たちがアメリカに集まってきている。その音楽家たちの一団が皆でピアノの小品を提供したものがまとめて出版され、一年間の著作権料はパデレフスキ記念基金に支払われ、苦痛にあえぐポーランド人の救済に充てられることとなった。

偉大な芸術家と共に寛大な寄付者を称えるのは幸せなことだ。それは同時に、この立派な組織が同胞の苦しみを軽減する助けともなるのである。

ヒュー・ギブソン

駐ポーランド初代アメリカ大使、1919年~1924年

1941年の春、現代フランスの最も抜きん出た作曲家であるダリウス・ミヨーがカリフォルニア州のミルズ・カレッジで講演した際に、私ども基金の副議長ドーダ・コンラッド(Doda Conrad)に対して、注目すべき音楽家たちが今こぞって西側世界に集まっていることを指摘した。コンラッド氏はポーランドの若いバリトン歌手であるが、当時大きなコンサートツアーの最中であり、リサイタルと並行して、ポーランド救済のためのパデレフスキ基金の活動推進にもあたっていた。ミヨー氏は、イグナツィ・ヤン・パデレフスキを称えて、彼のニューヨークデビューの 50周年の節目に、アメリカ出身、在住の作曲家たちにオリジナルの楽曲を提供してもらってはどうかと提案した。

コンラッド氏は多忙な自身に代わり、ニューヨーク公立図書館貸出部の音楽司書ドロシー・ロートン(Dorothy Lawton)に協力を依頼した。パデレフスキの信奉者でもあるロートン女史は、コンラッド氏の依頼を引き受け、作曲家たちに委嘱してこの曲集を完成させたのである。

パデレフスキが1941年6月29日に逝去したため、デビュー50周年を祝うことはかなわなくなった。譜面の校正のために若干の延期が必要と判断され、11月17日が出版日となった次第である。

私どもの敬愛するパデレフスキへ作曲家の方々から芸術性あふれるオマージュが寄せられたこと、また、寛大にも著作権料をご寄付頂くことに、心よりの感謝と賞嘆の意を表するものである。

パデレフスキ記念基金

執筆者: 西原 昌樹
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