グーセンス 1893-1962 Goossens, Eugene
解説:オーストラリア音楽センター (1161文字)
更新日:2010年1月1日
解説:オーストラリア音楽センター (1161文字)
1893年5月26日生、1962年6月13日没
ロンドンで生まれる。ブリュージュ音楽学校で学んだ後、1904年から1906年にリヴァプール音楽大学に進み、さらに1907年から1912年は王立音楽大学でチャールズ・スタンフォードに師事する。クィーンズ・ホール・オーケストラにてヴァイオリニストとして短期間活動したあと、指揮に転向。管弦楽曲とオペラを指揮し、トーマス・ビーチャムの助手を務め、ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団、ミネアポリス交響楽団、セントルイス交響楽団等を指揮するようになる。1931年から1946年はシンシナティ交響楽団の指揮者となる。
1946年、グーセンスはABCの客員指揮者としてオーストラリアを訪れる。翌1947年にはシドニー交響楽団の主席指揮者とニューサウスウェールズ州音楽学校校長の役職を得ることとなる。この二つの役職を兼任中、グーセンスはオーケストラと音楽学校それぞれの水準を高めることに尽力した(彼の在任は当初3年間だけの予定であったが、1956年まで続いた)。現代音楽の上演を推進し、ジョン・アンティルのバレエ音楽《カラバリ》などの作品をシドニーの聴衆に紹介した。また彼は、オーストラリア音楽の国内外での普及に努め、フェリックス・ウェーダーやマルコルム・ウィリアムソンといった若い作曲家の作品を演奏した。また音楽学校では、《ペレアスとメリザンド》、《ボリス・ゴドノフ》、そしてジョン・サザーランドのデビュー作となったグーセンス自身の作品《ジュディス》といったオペラ作品の上演を行った。さらに彼は、シドニーオペラハウスの建設活動においてリーダー的役割を果たし、現在の建設地であるベネロング岬は彼によって選ばれた。レジオンドヌール勲章の「シュバリエ」(騎士)を受勲し、1955年にはナイト爵位を与えられた。
しかしながら1956年、グーセンスは旅行から戻った際に非合法な物品を持ち込もうとしたというスキャンダルによって、オーストラリアでのキャリアを失うことになる。音楽学校の校長およびシドニー交響楽団の辞職を余儀なくされる。その後まもなく彼はオーストラリアを去ってイギリスへと向かう。後年、このスキャンダルはなんらかの形で工作された疑いがあると見られている。
グーセンスはヨーロッパ、南米、その他の地で指揮活動を続けるが、健康を損ない、1962年ミドルセックス州のヒリンドン病院で亡くなる。
グーセンスが自作を演奏することはほとんどなかったが、およそ70曲もの作品を残している。それらには、二つのオペラ《ジュディス》と《ドン・ファン・ド・マニャラ》、オラトリオ、いくつかの協奏曲、交響的作品、ピアノ曲、室内楽、声楽作品が含まれている。バレエ作品や三作目のオペラを含む、未完の作品が多く残されている。
作品(14)
ピアノ独奏曲 (6)
曲集・小品集 (5)
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種々の作品 (4)
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ピアノ合奏曲 (1)