
解説:上田 泰史 (1309文字)
更新日:2018年3月12日
解説:上田 泰史 (1309文字)
1895年4月3日、フィレンツェに生まれる。裕福な銀行家の家庭で、両親はイタリア系ユダヤ人であった。幼少の頃から母にピアノの手ほどきを受け、9歳の時には初めての自作曲を発表するなど、早熟の天才であったという。
1914年にフィレンツェ音楽院ピアノ科を修了すると、さらに同音楽院の作曲科へ入り、イルデブラント・ピツェッティに師事する。ピツェッティは、レスピーギと同年代の作曲家で、オペラ中心であったイタリア音楽から脱却し、器楽中心のイタリア音楽の再興を目指すイタリア新古典主義音楽の流れを汲んでいた。カステルヌオーヴォ=テデスコも、師の思想を受け継ぎ、器楽曲から管弦楽にいたるまで、様々なジャンルの作品を書き上げ、生涯200曲以上もの曲をのこした。
音楽院卒業後、当時のイタリア音楽界で絶大な影響力を誇っていた作曲家アルフレード・カゼッラに才能を認められ、イタリア現代音楽協会の前身である国民音楽協会に引き立てられるなど、作曲家として順風満帆なキャリアをスタートさせ、イタリア国内はもとより、ヨーロッパ中へ活躍の場を広げ、若い頃から名声を得ていった。
1931年には、同じくユダヤ系の世界的ヴァイオリン奏者ヤッシャ・ハイフェッツから委嘱依頼を受け、〈ヴァイオリン協奏曲第2番「預言者たち」〉を作曲。2人のルーツであるユダヤ教の典礼や旧約聖書を題材にしたこの作品は、19世紀末からヨーロッパ全土に反ユダヤ運動が広がり、暗雲立ちこめる中で、ユダヤの血をひく者としての誇りを音楽に強く込めたものだった。
しかし、そんなユダヤ系の彼らの懸命の叫びもむなしく、1930年代に入るとイタリア国内でもファシズムが台頭し始め、ユダヤ系であったカステルヌオーヴォ=テデスコはイタリアでの音楽活動が厳しくなってしまった。カステルヌオーヴォ=テデスコはイタリアでの音楽活動を強く望んでいたが、激しいファシズムのユダヤ弾圧の中で願いは叶わず、スカラ座の音楽監督を務めたアルトゥーロ・トスカニーニの援助を受けて、カステルヌオーヴォ=テデスコは母国イタリアを離れ、アメリカへと渡ることとなった。第二次世界大戦が始まる直前の1939年のことであった。
アメリカへ渡ったカステルヌオーヴォ=テデスコは、ヨーロッパから迫害を逃れてアメリカへやって来たユダヤ人が多く活躍していたハリウッドで、映画音楽の作曲をするようになる。大手映画会社MGMとの作曲家契約を支援したのは、かつて委嘱作品を手がけたハイフェッツだったという。
カステルヌオーヴォ=テデスコは、映画音楽と自らの芸術音楽は別のものだと割り切っていたようだが、「名犬ラッシー」や「ガス燈」など数々のヒット作の音楽を手がけ、ジョン・ウィリアムズやヘンリー・マンシーニなど後世の映画音楽作曲家へ与えた影響は計り知れない。
日本ではギター曲が有名なため、カステルヌオーヴォ=テデスコというとクラシックギターの作曲家のイメージが強いが、彼の音楽はそれだけではない。ラヴェルを思わせるような印象派の響きから、ピツェッティの流れをくむ新古典主義、また映画音楽まで幅広い作風で、20世紀の激動の時代を駆け抜けた作曲家といえる。
作品(37)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
ピアノ独奏曲 (9)
曲集・小品集 (7)
種々の作品 (17)