スペイン舞曲集より アンダルーサ Op.37-5
■はじめに "Andaluza" は、作曲者自身がつけたタイトルではないが、あたかもフラメンコ(アンダルシア地方の伝統芸能)のサパテアード(足打ち)や拍手のコントラティエンポ(裏打ち) が聞こえてくるような空気がこの名づけをもたらしたのだろう。ちなみに"Playera"もアンダルシアの歌の名である。(砂浜の、という意味から転じて今日ではT シャツのことを指すらしいけれど…)ピアノのための作品であるが、これらの特性によくマッチすることから、ギターでの演奏の機会も非常に多い。
■自分ならではのストーリーを組み立てよう グラナドスの最初期の作品であるが、もっともポピュラーなもののひとつであろうこの曲の全体は、限られた楽想が連歌のように韻を踏んで繰り返されるシンプルな三部形式となっている。楽想自体もシンプルなものが多いが、それだけに自由な発想の可能性が広がり、噛めば噛むほど味が出る。名品として親しまれるゆえんであろう。
以下のごときストーリー的描写も、あくまでも筆者の構想にすぎないので、何らの正当性をも持ちえないが、演奏家による楽譜の「楽しみ方」の一つの事例として、着眼点等を参考にされて各自の世界を作られたい。
●序奏~ 序奏のバスのステップはアッチャカトゥーラ的に装飾され「ジャンジャンジャン!」、右手におかれたコントラティエンポ「ンパンパンパ…!」と合わせてスペイン風の気分を盛り上げる。これに導かれる主旋律の動機もスペインに由来する舞曲サラバンドのリズムの面影を残し、気楽さの内にそこはかとなく気高さを備えている。(アンダルシアの夜は、歌い、舞い、語りかけ、祈るのだ。) この旋律はアウフタクトの3音(「ラララ♪」…といった雰囲気で)の順次上行(x )ののち、ひとたびH へ長3度ジャンプするが、その後はH-A-H-Aを往復した挙句、結局最後のAのアクセントがもたらす下行圧力が、性急なカデンツを導く。(両外声が反行ではあるものの、ユニゾンである点も独特である。) やや強気で「つれない」旋律であるが、しかしこのことがこの旋律に秘められた発展性をもたらし、のちの高揚をもたらすのである。 繰り返されて第8小節ではこれが6 度下行し平行調(III度調)のG-dur への束の間の転調をもたらすが、その後すぐ両外声に平行5 度を多発させるオルガヌム的に大胆で古風な和声進行でもとのe-moll へと向けやや強引に引き戻され(変終止的)、素朴ゆえに神秘と魔力に満ちた異国情緒を、いっそう掻き立ている。
●11小節目~ 第11小節からも再び繰り返しであるが、左右のリズムは反転しており、また第13小節ではそれまでの最高音であるC に達し(これで冒頭のx とも一致する)、バスも7 度上行することと相まってやや強気さが潜み、本音が見え隠れするようなセンチメンタルなムードを醸すが(Ⅱ7)、やはりすぐにカデンツを指向する。ただしここでは3/8拍子の1小節が挿入され、カデンツはよりクラシカルで完全な形を見せている。カデンツのあとは、第13小節の4つの音からなる本音(H-A-H-C) が完全4度下(Fis-E-Fis-G) であきらめのようにこだまするのだが、3回目はx にあたる3音が装飾を伴ってピカルディー終止的に長調に転じ、束の間の笑顔を見せる。(何だか一抹の嘘くささも感じさせるのだが…)
● 20小節目~ 第20小節において10度下で長調を断定する支えを得ているのだが、主旋律はその直後に自ら疑念を捨てきれず長調の支えをC で固辞するが(準固有和音)、これを乗り越えて単独で最高音にD に達し、言わば大見得を切る形となる。常に準固有和音の影がちらつくものの、第22小節までは内声が長調的な逞しさを補強しようとしているが、第23小節のpiù p でこれにも疑いが生じ、結局は慎み深い短調に戻るのである。(実は最初のx のアウフタクト以来、ソプラノの旋律は一度たりとも長調の構成音を歌っていない!)第30小節に再びみられるピカルディー終止のx は、第18小節とまったく同じものであるが、これらのプロセスを経た後にあってはややフェイントを内包する「忍従」のようにも聴こえないだろうか?
● 32小節目~ 第32小節から始まるB では、テンポをAndanteに緩め、同主長調のE-dur に転調するが、旋律自体はA のものを縮約したものがサラバンドのリズムともどもオスティナート的に使われる。加えてA では一時的なものにとどまった平行旋律が、ここでは終始10度あるいは6度下に寄り添っているので、信頼感があり一時の安堵を覚えることだろう。ところで、サラサーテのヴァイオリン曲"Playera" は「祈り」として親しまれているが、このグラナドスの"Playera" の、特にこの部分が、チャイコフスキーの「朝の祈り」の冒頭と同じ動機で、やや同じムードを持つことは、偶然の一致だとしても興味深い。 * 譜例(チャイコフスキー冒頭2小節)
内声に同調して第39 小節から見られる下行する旋律はぴったりペンタトニック(五音音階)にマッチしており、その素朴で潔白なムードを演出するのに一役買っている。(同意の相槌Cis-H とともに寄り添うA-Gis はこのペンタトニックからはハミ出るが…)この潔白なモティーフは違ったアクセントやニュアンスを伴って、全終止のカデンツを持つもの、持たないもの合わせて幾度も慈しむように繰り返され、最終的にppに達する。相槌の噛ませ方などを駆使して、このようなリピートにどれだけの即興性を持たせられるか、演奏者が試されるポイントでもあろう。「~だろう。~でしょう。~であろう。~じゃないか。~であるまいか。」 日本語でもいろいろな語尾のニュアンスが、あるものだ。
● 48小節目~ 第48小節からはほぼ、以上の16小節の繰り返しだが、細かい音価やニュアンスの変化は不注意の産物か、はたまた即興性のあらわれか…(余談だが、グラナドスの自作自演とされているピアノ・ロールの録音を聴くと、その優れた即興性と、楽譜との差異の多さに驚かされることだろう。) 決定的な変化は第63小節からの潔白モティーフの6回目の(!)繰り返しにおいて、ソプラノのCis に内声はC で対立し(対斜)、少なくともペンタトニックは明白に打ち消され短調を方向付けることである。まだ長調へ戻る可能性を完全には捨てきってはいないものの…(準固有和音かもしれないので) こうして再帰するA は、ほぼ完全な再現であり、相違点はほぼ曲が終わる第95小節にわずかにみられるリズムの左右反転(第11-12小節に類似)のみである。
●再現 最終的には、百聞は一見に如かず。こうして書きながらも筆者の脳裏には、学生時代にアンダルシアを数度にわたって訪ねた時の思い出がよみがえる。旅行とはただ漫然と移動するだけではない。コンクールやコンサートが目当てであっても、風土や文化、そして言葉についてある程度の予習をしてから行ったものだ。もちろん、レパートリーとしていくばくかのスペイン音楽を携えて… まだアンダルシアを体験していない方は、ぜひこの曲を入口として旅に出てみられては?今はインターネットでいくらでも情報が手に入るからこそ、しばし現地の人々とともに生活されてみてはいかがだろうか?きっと一生残る財産になるだろう。