ラフマニノフはピアノ独奏の為に、自身の歌曲やシューベルト、メンデルスゾーンやビゼーといった作曲家の作品を編曲した。編曲作品の大半が、ラフマニノフが1917年に祖国のロシアを離れてから書かれたものである。ちょうどこの頃のラフマニノフは、それまでは自作中心の演奏活動であったところから、他人の作品の演奏も積極的に行うようになっており、ピアニストとしてのキャリアを本格化させていた時期であった。
「愛の悲しみ」は、20世紀前半を代表するオーストリア出身の作曲家・ヴァイオリニストであったフリッツ・クライスラー(1875-1962)が書いた、ヴァイオリンとピアノの為の同名曲を編曲したものである。原曲の冒頭には「レントラーのテンポで Tempo di Ländler」と発想指示が書かれており、ワルツの前身である南ドイツ発祥の「レントラー」を意識したことが窺えるが、ラフマニノフによる編曲の冒頭には「ワルツのテンポで Tempo di Valse」と書かれている。その為、ラフマニノフはこの作品に田舎風の踊りというよりも、都会的で洗練された雰囲気を求めたのではないだろうか。実際に音楽を見てみると、主題の旋律に休符を入れて遅らせるなどしてリズムに手を加えており、原曲とセットで演奏されることが多い、同じくヴァイオリン独奏とピアノのための「愛の喜び」に通ずる華やかなウィンナ・ワルツの要素が見受けられる。また、内声に執拗なまでに半音階の音型を入れ込むなど、原曲に漂う哀愁を、より複雑な感情の描写へと拡張させている。
なお、「愛の悲しみ」は、原語(ドイツ語)では「Liebesleid」と表記される。「Leid」は日本語では「悲しみ」をはじめ、「心痛」や「苦難」と訳され、画一的なイメージを与えるが、同じドイツ語圏でも、ドイツとオーストリアでは大きく捉え方が違っている。ドイツでは、日本人が思い描く「悲しみ」に非常に近い感覚でこの言葉を捉え、悲愴感や絶望を感じているが、オーストリア人にとっては、どこか望みがあり、憧れを含んでいる。ラフマニノフ編曲によるこの作品を見ると、そうした「悲哀」と「憧憬」の交錯がより分かりやすく表現されているように思われる。