ラヴェルが、自分の母の故郷であるフランス南西部バスク地方に想いを寄せ、自らルーツを辿るかのようにバスクへ赴いて書いた作品です。
この曲は1914年の夏、第一次世界大戦の勃発を理由に、5週間という早さで作曲されました。ラヴェルは完成後、39歳という年齢ながらもフランス軍に自ら志願し、陸軍砲兵隊に入隊、その戦いに参加しました。
戦争が勃発したことで、「もしかしたらもうこれが最後の作品になるかもしれない」という気持ちがあったラヴェルは、それまでの集大成の作品として大変力を入れて書いたため、まるでオーケストラを思わせるようなスケールの大きさや、それまでの作品にはあまり見られない技法を用いています。
ピアノは、様々な技巧を駆使し、さらには鍵盤の端から端までを余すことなく使うことで音楽にコントラストを与えています。弦楽器においては、ヴァイオリンとチェロの運弓(ボウイング)をわざわざ逆にしている点、そしてフラジョレットを多用し、音色に大きな変化を加えている点などが、特徴的な作曲技法として挙げられます。(譜例1)
(譜例1 / 第1楽章、練習番号8)
1915年1月28日に行われた初演は成功を収め、ラヴェルの師フォーレは「素晴らしい三重奏曲だった」(1915年2月15日)、友人のミヨーも「欠点のない作品で、ラヴェルの簡素かつ明瞭な旋律はなんとも魅力的だった」と書き残しています。
第1楽章
第1楽章は、母の故郷バスク地方に伝わる踊り「ソルツィーコ」を元に作曲されています。作曲者によると、「一般的なソルツィーコは5拍子で書かれているものの、古いソルツィーコは8分の8拍子(5+3分の8拍子)で、後者をベースに書いた」そう。
この5分の8拍子と3分の8拍子が融合されたという痕跡は、冒頭の動機のスタッカート位置により辿ることができます。(譜例2)
(譜例2 / 第1楽章、冒頭)
ソナタ形式で書かれており、第1主題、第2主題の音価を半分、または2倍にして様々な箇所に散りばめることで、楽章全体に統一感を与えています。
楽章自体はイ短調ですが、ピアノパートに「lointain(遠くで、ぼんやりと)」と書かれた集結部では並行調のハ長調に転調し、そのまま遠くに消えていくように終わります。(譜例3)
(譜例3 / 第1楽章、練習番号13)
第2楽章
第2楽章は、マレーシアの「パントゥム」という詩の韻を元に書かれています。ラヴェルは1889年に行われたパリ万博で、東南アジアや中国、そして日本の文化に大きく影響されましたが、この楽章にもその片鱗をうかがうことができます。
スケルツォ楽章で、トリオに当たる中間部では、パートによって拍子が異なるのも大きな特徴です。(譜例4 / ピアノは2分の4拍子、弦楽器は4分の3拍子)
ひっきりなしに動き回るピアノの超絶技巧が、第2楽章の煌びやかさを演出しています。
(譜例4 / 第2楽章、練習番号10)
第3楽章
「パッサカリア」と題された第3楽章は、厳かな性格を持ちながらもシンプルで、ピアノ三重奏曲全体を通して、最も内にこもった楽章です。たった88小節で書かれ、ppに始まり、中間部でffを迎えたのち、終わりに向かってディミヌエンドし、ppで終わるという、まるで一筆書きのような構造を持ちます。
1925年6月にエコールノルマル音楽院で行われたラヴェル自身の講座では、「曲の持つ遅さを強調することで、葬送的な雰囲気を演出する」と述べています。
戦死した友人たちを悼んで書かれた《クープランの墓》(1914〜17年作曲)では、古いフランス組曲の形式を継承していますが、この楽章も、戦争を迎えたフランスの未来をどこか暗喩するように、かつてフランスで踊られていたパッサカリアを用いています。
第4楽章
第3楽章からアタッカで演奏される第4楽章は、4分の5拍子と4分の7拍子が忙しなく入れ替わるように書かれています。
ラヴェル自身が「僕が小さい頃、お母さんはいつもバスクの歌を聴かせてくれた」と述べていますが、バスクの歌は5拍子と7拍子のものが多く、自分の小さい頃を思い出すかのような懐かしさが漂います。(譜例5 /第4楽章、練習番号14)
弦楽器のトリルに乗せられて、ピアノのグリッサンドや、立て続けに奏でられる和音が曲を盛り上げます。中間部では混沌とした曲調の中にファンファーレを思わせる動機が登場し、雲行きが怪しくなるものの、終わりへ向かうにつれ鮮やかさが増し、高揚感に満たされながら華々しく曲を閉じます。
(譜例5 / 第4楽章、練習番号14)