ホーム > 黛 敏郎

黛 敏郎 1929-1997 Mayuzumi, Toshiro

  • 解説:須藤 英子 (986文字)

  • 更新日:2018年4月23日
  • 1929年、横浜市に生まれる。中学時代より、 独学で作曲を学ぶ。東京音楽学校(現東京藝術大 学)にて、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事。当時より、ストラヴィンスキーを初めと する新古典主義的な作風を学ぶとともに、ジャ ズやガムランなど非西欧音楽にも親しんだ。

    在学中に書かれたピアノ独奏曲《オール・ ドゥーブル》(1947)には、ジャズの影響が見 られる。1948年に作曲された卒業作品《10楽器のためのディベルティメント》 は、卓越した作曲技巧により一躍注目を集め、後にレコード化された。1950年のNHK交響楽団委嘱作品 《シンフォニック・ムード》には、ガムラン音楽の影響が色濃い。またインドやジャワの音楽に触発されて創作された室内楽作品《スフェノグラム(楔形文字) 》(1951)は、国際現代音楽祭に入選。 若くして、国内外にその名を知らしめた。

    1951年に研究科修了後、フランス政府給費 留学生としてパリ音楽院に入学。トニー・オーバンに師事する。しかし西洋音楽の可能性と限 界を見極め、1年で退学。帰国後、留学中に接した前衛的手法を取り入れながら、作品を次々 と発表する。1953年に日本文化放送の委嘱により作曲した《X・Y・Z》は、日本最初のミュジッ ク・コンクレート作品として注目を集めるとともに、武満徹など同時代の作曲家に大きな影響を与えた。1956年には、諸井誠との共作により電子音楽《7のヴァリエーション》を、翌年には《プリペアド・ピアノと弦楽のための小品》 を発表し、時代の最先端をゆく作曲家として存 在感を高めた。

    1953年より、芥川也寸志、團伊玖磨と「3人の会」を結成。管弦楽作品を中心に華々しく演奏会を開催し、戦後の作曲界を牽引した。そ の後、黛は次第に日本の伝統に目を向けるようになり、1958年には梵鐘と声明を取り入れた 《涅槃交響曲》を発表。また、オーケストラ作品《BUGAKU》 (1962)やオペラ《金閣寺》 (1976) など、仏教や伝統音楽に題材をとった作品を次々と創作した。

    映画音楽の作曲や 30余年に渡るテレビ番組『題名のない音楽会』の司会などを通して、 社会的にも人気を博した黛敏郎。1970年以降 は政治的発言も増え、1991年より「日本を守る国民会議」の議長も務めた。紫綬褒章受章。 1997年、68歳で死去。

    執筆者: 須藤 英子
    <続きを表示する>

    About composer : 須藤 英子 (3057文字)

    更新日:2018年4月23日
    [開く]

    作品(4)

    ピアノ独奏曲 (2)

    前奏曲 (1)

    12の前奏曲 12の前奏曲

    作曲年:1945 

    動画(0)

    楽譜(0)

    ★ 種々の作品 ★ (2)

    ポエジィ ポエジィ

    作曲年:1946 

    動画(0)

    解説(0)

    楽譜(0)