池内 友次郎 1906-1991 Ikenouchi, Tomojirou
解説:平野 貴俊 (882文字)
更新日:2018年4月19日
解説:平野 貴俊 (882文字)
作曲家、教育者、俳人(1906~91)。第二次大戦直後に東京藝術大学作曲科教授に就任し、 パリ音楽院で学んだエクリチュール教育の日本における普及に尽力、黛敏郎、矢代秋雄、松村禎三らを育てた。高浜虚子の次男として東京に生まれる。小学生の時には能に親しみ、稽古に励んだ。開成中学在学中から、レコードで音楽を聴くことに熱中し、とりわけフランス音楽に魅力を見出す。慶應義塾大学在学中、フランスで作曲を学ぶことを決意し大学を中退、1927 年 3 月パリに到着。翌年 10 月にパリ音楽院のフォーシェの和声クラスに入学する。1930 年 4 ~10 月と 1932 年 12 月~34 年 3 月の一時帰国を経て再渡仏、1932 年にフォーシェの和声クラスで第一次席、1934 年に二等賞を得て、同 年 10 月にはジョルジュ・コサードのフーガ、 アンリ・ビュセールの作曲の各クラスに入学、 修了することなく 1936 年 8 月に帰国した。パ リでは演奏会でラヴェル、シェーンベルク、リ ヒャルト・シュトラウス、プロコフィエフらの姿を目にする一方で、原智恵子、安川加壽子、 高木東六、平尾貴四男、宅孝二ら日本の音楽家と親交を深め、帰国後はその人脈を活かしてフランス音楽の普及に貢献した。1947 年、東京音楽学校(2 年後東京藝術大学に改組)教授に就 任、1955 年には門弟による作品発表会「深新會」を組織し、東京藝術大学音楽学部長(1970 ~74)など大学内外で要職を務めた。作曲理論書の執筆と並行して、ダンディの大著『作曲法講義』、ビュセールの理論書の翻訳も行った。《熊 野―ソプラノと管弦楽のための 3 つの小品》 (1942)などに代表されるその作品では、声楽が大きな比重を占めており、簡潔さや謹厳さといった俳句に通じる美質をそなえている。句集を出版し、戦後も『ホトトギス』の選者を務めるなど、俳人としても活動。芸術文化勲章シュヴァリエ(1960)、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ(1961)、勲三等旭日中綬章(1977)を 受章、文化功労者(1986)。
作品(5)
ピアノ独奏曲 (3)