
解説:太田 郁 (545文字)
更新日:2018年4月24日
解説:太田 郁 (545文字)
1904年、東京に生まれる。東京音楽学校本科器楽科でヴァイオリンを専攻し、安藤幸、G. クローンらに師事する。1927年に同校を卒業、 研究科に進み、作曲を学んだ。1933年に母校 の教授に就任すると、1947年まで作曲家の教 授を務め後進の指導にあたった。弟子には矢代秋雄、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎らがいる。1934~36年には文部省留学生として渡欧、ク ルシェネク、シェーンベルクらに師事して作曲技法を習得した。戦時中は時局の要請による作曲も多く、戦時歌謡の他、1940年には《交響曲第1番ニ調》を紀元二千六百年奉祝曲として作曲した。戦後1947年にはそうした活動から母校での教職から退き、間もなく1949年に死去した。
歌曲作品では荻野綾子の委嘱によって、深尾須磨子の詩による《黴》、《斑猫》(ともに1928年)、《舞》(1929年)を作曲し、当時の歌曲作品の中で画期的なスタイルを打ち出した。荻野はフラ ンスに留学しフランス歌曲を数多く日本に紹介しているが、荻野の演奏に刺激を受け、橋本のこれらの作品にもフランス印象派からの影響が見られる。一方でラジオ歌謡など人々に広く普及した楽曲や、戦後は戦死した人々への追悼から《3つの和讃》を作曲するなど、作曲スタイルは多岐に渡っていた。
解説 : 須藤 英子
(361 文字)
更新日:2006年8月1日
[開く]
解説 : 須藤 英子 (361 文字)
東京生まれ。東京音楽学校(現東京芸術大学)および同研究科にてヴァイオリンを専攻。同時にほぼ独学で作曲を学び、前衛音楽から歌謡曲に至る幅広い創作活動を通じて一躍時代の寵児となる。その後1934年から3年間、文部省派遣生として欧州に遊学。シェーンベルクやその弟子ヴェレス、クルシェネクらに師事する。帰国後は東京音楽学校にて教鞭を取る傍ら、時局の要請に応じて戦時歌謡等を多数創作。戦後その戦争責任から母校を追われ、間もなく44歳で癌のため死去した。フランス印象派等の影響を受けつつ、日本の伝統的モチーフ他様々な旋法を用いたその創作は、ドイツロマン派を主流とした当時の楽壇にあって一際異彩を放っていたと言えよう。ピアノ曲にも、「三枚繪」や「をどり」など魅力的な作品が多い。門下生には矢代秋雄、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎らがいる。
解説 : 杉浦 菜々子
(184 文字)
更新日:2021年7月12日
[開く]
解説 : 杉浦 菜々子 (184 文字)
東京音楽学校本科器楽科(現・東京芸大)に入り、作曲は独学、その後研究科で器楽科並びに作曲科を修め、その後同校にて教鞭をとった。欧米には1934年から1937年まで文部省留学生として遊学した。最初は、ドイツロマン派の技巧から出発したが、日本で早くからフランス印象派の手法を取り入れた。抒情的な旋律感と洗練されたスタイルを備え、当時の作曲界のモダニストとして異彩を放った。