ヒンデミット 1895-1963 Hindemith, Paul
解説:千葉 豊 (6044文字)
更新日:2021年7月13日
解説:千葉 豊 (6044文字)
生涯
パウル・ヒンデミット(1895–1963)は作曲家、演奏家、音楽理論家、指揮者として多彩な功績を遺した人物である。20世紀の西洋音楽史の展開において、第2次ウィーン楽派による十二音技法の後代への影響の陰に隠れてしまいがちだが、A. シェーンベルクらとは異なる方法論で音楽創作の「伝統と革新」を体現し、現代音楽の重要なレパートリーを数多く遺した。
ヒンデミットは、ドイツのハーナウで5人兄妹の長男として生まれた。音楽家を目指しながらも挫折した父の期待を背負い、幼少期からヴァイオリンを学んだ。父は、子供達を音楽家に育てようと教育に情熱を傾けた。その甲斐あって、長男パウルがまずはヴァイオリニストとして頭角を現し、彼の妹と弟がそれぞれピアニストとチェリストとして活動することとなる。
ヒンデミットが本格的なヴァイオリン教育を受け始めるのは、A. レブナーに師事した1908年以降である。フランクフルト歌劇場のコンサート・マスターで、ホッホ音楽院の教師でもあったレブナーとの出会いは、ヒンデミットの音楽家としてのキャリアにとって最初の重要な転機と言える。ヒンデミットは同大学院でヴァイオリニストとしての研鑽を積みながら、A. メンデルスゾーンとB. ゼクレスに作曲を学んだ。初めて作品番号が与えられたヒンデミットの作品(op. 1~3)はゼクレスに師事した19歳から22歳までに書かれている。
ヒンデミットは第1次大戦時、1918年に軍楽隊員として従軍した。大戦末期には歩哨としてフランダースに配備され、敵の砲撃から奇跡的に生還したことを当時の日記に綴っている。第1次大戦後、フランクフルトに戻ったヒンデミットは演奏活動を再開するが、「レブナー弦楽四重奏団」で自ら第2ヴァイオリンからヴィオラのポジションへ移り、ヴィオリストとしても活動し始めた。作曲家としては、1919年に初めて開催した自作品のみの演奏会の成功によって、ショット社から楽譜が出版されることが決まり、以降ヒンデミットの作品は唯一同社からのみ出版されている。ショット社との契約を皮切りに、ヒンデミットの作曲活動は勢いを増し、1919-1921年にかけて歌曲、ピアノ曲、弦楽曲からオペラに至るまで幅広いジャンルの作品を発表した。この時期にヒンデミットがパロディ風の作品や映画音楽、大衆向けの娯楽音楽を作曲したことは、日本で言う中学生の時期から舞踏会やカフェ、映画館等で演奏活動を始めた彼の音楽家としての素養に由来するものと言えよう。
演奏家、作曲家として国際的な名声を高めていった1920年代、ヒンデミットはドナウエッシンゲン室内楽祭(1921-1926)やバーデン・バーデン室内楽祭(1927-1929)の企画・運営に携わる中で、第1次大戦後の新音楽の展開にとって中心的存在の1人となった。また、1927年からベルリン音楽大学(現ベルリン芸術大学)で作曲を教えた経験は、ヒンデミットが音楽教育の問題に対峙しながら、自らの音楽理念を構築していく契機を与えた。彼の『作曲の手引第1巻:理論編』(1937, 邦訳1953)や『同第2巻:2声作曲の練習』(1939, 邦訳1958)を始めとする著作は、学生への教育上の必要性に基づいて著されたものであると同時に、ヒンデミット自身の作曲上の理論と実践の合目的性を達成するための創造的営為の帰結として理解され得る。
1933年にヒトラーが首相に任命され、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が独裁体制を築き始めると、ヒンデミットの作品の半数がナチスによって「文化ボリシェヴィキ」の烙印を押されて発禁となり、彼は徐々にドイツでの活動を制限されていく。ベルリン音楽大学での職を始めとする国内の仕事を断念せざるを得ない状況で、ヒンデミットは1935年からトルコ政府の依頼で同国の音楽教育水準を向上させるために活動した。ナチ政権樹立後、1938年にスイスへ亡命するまでのヒンデミットの音楽創作からは、母国への愛着と政治的現実に対する悲観という複雑な心境を見出すことができる。実際、ドイツで活動継続するためにナチスとの関係を模索した事実はある。だが結局は、1936年にベルリンで開催した自作品による演奏会を最後に、国内でヒンデミットの作品は演奏禁止となり、亡命を余儀なくされた。
1940年にスイスからアメリカへ亡命してからは(市民権を得たのは1946年)、1940-1953年までイェール大学音楽院で教授を務めた。ヒンデミットはこの時期に『伝統的和声の集中講義』(1943, 邦訳1952)や『音楽家のための基礎練習』(1946, 邦訳1957)等の著作を残し、自身の音楽理論と教育法の完成に注力した。また、アメリカ移住後のヒンデミットは指揮者として活動する傍ら、当時アメリカで最も演奏機会の多い芸術音楽作曲家として、数多くの委嘱作品の作曲に精力的に取り組んだ。現在でも人気の高い《ウェーバーの主題による交響的変容》(1943)はこの時期の代表作の一つである。ヒンデミットはアメリカでの音楽活動が充実し、芸術音楽の中心地がもはやヨーロッパだけではなくなったこともあり、第2次大戦後もアメリカに留まった。しかし、1947年には戦後初めてヨーロッパ・ツアーを行い、ドイツ滞在中は演奏会やフランクフルト・ラジオ局のインタビュー等のスケジュールをこなしながら、母や友人との再会を果たした。また、1948-1949年にかけてのヨーロッパ・ツアーの際は、在ドイツ合衆国軍政府(OMGUS)の要請で2か月間ドイツに滞在し、アメリカ占領地域で演奏会や講演を行い、現地で多大なる賞賛を受けたことが当時の新聞記事になっている。アメリカ時代のヒンデミットは、音楽教育者としての地位を確立すると共に、作曲家として世界的な名声を手にした。
1951年からチューリヒ大学の教授職を得たヒンデミットは、イェール大学音楽院を辞職後の1953年にスイスへ移住し、再びヨーロッパで新たな活路を見出した。1950年代は大学での教育活動よりも指揮活動の方に力を傾け、ヨーロッパや南米、日本をはじめとする世界中で演奏ツアーを行いながら、自身の管弦楽曲の録音にも取り組んでいる。作曲家としては、初期のオペラや器楽曲等の改訂作業と並行して、管楽器のための作品を多く残した。晩年は、モテットやマドリガルといった声楽ジャンルへの興味を示し、《無伴奏混声合唱のためのミサ》(1963)がヒンデミットの最後の作品となった。胃腸の不調により1963年11月にフランクフルトの病院で精密検査を受けるが、翌月28日夜に予期せぬ卒中発作の後で死亡した。死因は胆のう癌であったと伝えられている。妻は、ヒンデミットが育ったフランクフルトを埋葬地に望んだが、彼がアメリカの名誉市民権をもちながらスイスに居住していたことが原因でその望みは叶わず、ヒンデミットのスイスでの居住地であったブロネの近隣教区に埋葬された。
ヒンデミットの音楽創作
ヒンデミットの創作史は次の3つの時期に区分されるのが一般的である。1922年頃までが第1期、1923-1934年までが第2期、以降が第3期。第1次大戦以前の彼の音楽語法からは、G. マーラーやR. シュトラウス等の影響が見出され、特に《チェロとピアノのための3つの作品》op. 8(1917)と《ソプラノと大管弦楽のための3つの歌曲》op. 9(1917)は後期ロマン派的な抒情性が色濃い。第1次大戦後からナチスが権力掌握するまでの時期と重なる第1期から第2期にかけて、ヒンデミットの作風は表現主義から新即物主義へと移行したと認識されているものの、彼が自作品に当時の社会的機運を積極的に反映させ、音楽家と聴衆の結びつきの回復を追究したという点では、一貫した創作理念を保持していると言える。この点に関して、ヒンデミットは自らをJ. S. バッハやW. A. モーツァルトの後を継ぐ、何らかの実用目的に資するような音楽づくりを担う者としての自意識をもち、公衆に音楽作品・演奏を提供する楽士として有用性のある音楽に価値を見出した。1920-1930年代にヒンデミットが取り組んだ無声映画のための伴奏音楽やラジオ放送用の作品、音楽愛好家に向けた「実用音楽」等は、彼が音楽創作の上でいかに第1次大戦後の大衆社会を意識していたかを示唆するものである。音楽家が社会から乖離することを回避しようとするヒンデミットのこうした音楽創作は、ベルリンで刊行された音楽雑誌『メロス』(1920-1934)上で注目され、作曲家と演奏家の調和の体現者として、プロからアマチュアまで幅広く演奏される作品を手掛けた理想的な現代音楽作曲家であると評価された。
ヒンデミットは、映画やラジオといった第1次大戦後に普及した先進的なメディアに加えて、自動楽器を作曲に導入した先駆者でもある。自動ピアノ用に編曲された《ピアノ音楽》作品37(1925)のロンドや《自動楽器のための音楽》作品40(1926:一部残存)を始めとして、ヒンデミットは自身が担当した5本中2本の映画音楽に自動楽器を用いた(《猫のフェリックス》(1927),《午前の大騒ぎ》(1928):共に消失)。ヴァイマル共和政期(1919-1933)は、映画館が歌劇場に取って代わり、映画を観に行くことが社会のどの階層に属する人々にとっても享受し得る娯楽になった時代であり、ヒンデミットも映画音楽の作曲を通して、当時数多く制作された無声映画から多大な影響を受けた。とりわけ、映画作法を直接的に取り込むことのできるジャンルとして、ヒンデミットが生涯を通じて創作し続けたのがオペラである。彼は創作第1期から既に、1幕物のオペラ《殺人者、女達の望み》(1921)、《ヌシュ・ヌシ》(1921)、《聖スザンナ》(1922)を作曲したが、第2期の《カルディヤック》(1926)はそのプロット、音楽、演出において1920年代のドイツ表現主義映画に負うところが大きく、映画『カリガリ博士』(1920)との親近性が指摘される。また、《行き帰り》(1927)と《今日のニュース》(1929)は、いわゆる「時事オペラ」の代表作であり、C. チャップリンの喜劇映画にも相通ずる当代社会への風刺性を内包している。さらに、交響曲版がヒンデミットの最も有名な作品の一つである《画家マティス》(1938)の後も、晩年に《世界の調和》(1957)と《長いクリスマスの会食》(1961)を発表し、その長きに渡る創作人生において、オペラがヒンデミットにとって求心力を失っていなかったことが窺える。
作曲家ヒンデミットには、俗世から隔絶された場所で己の音楽世界に沈潜する孤高の存在、というようなロマン主義的天才像は全く当てはまらない。彼はヴァイマル文化やアメリカ社会の気質や流行、時代の要請を敏感に察知しながら新たな音楽文化を開拓したと言える。「新即物主義」と呼ばれる芸術思潮の根底には、まさに上述したような時代に即応した創作上のリアリズムを認めることができ、ヒンデミットが新即物主義の代表的作曲家として評価される理由はそこにある。ただ、ヒンデミットの創作史上の展開を表現主義や新即物主義、あるいは新古典主義として論じる場合、それぞれの様式概念が彼の音楽作品の実体に基づいて厳密に区別されているとは言い難い。例えば、新即物主義の音楽的特徴と言えるパロディ性や大衆娯楽音楽の利用は、「表現主義時代」とされる第1期の作品にも顕著であり、《ラグタイム(平均律の)》(1921)ではバッハをもじりながら当時流行のジャズを取り入れ、《組曲1922》作品26(1922)はシミーやボストンといったダンス音楽を風刺的に導入した。ヒンデミットが音楽に共同体的な価値を求め、自らの創作理念として技法的な「革新」よりも芸術という行為の社会的機能を掲げたことは、彼の創作史を表現主義や新即物主義という様式概念の下で理解する上で重要である。
そもそも、上述したようにヒンデミットのいわゆる表現主義/新即物主義時代に一貫性が見られるのは、両者が歴史的に地続きで生じた芸術思潮であるからに他ならない。特に美術領域で、表現主義絵画において開花したグロテスクで鮮烈な色彩と歪んだ筆致が、新即物主義の顕著な特徴として引き継がれたのと同様に、ヒンデミットの新即物主義時代の音楽にも、表現主義的な音色と音高の鋭さや切り詰められた瞬間的なダイナミクスの変化、不規則的に中断・再開されるアーティキュレーションといった特徴を如実に示す作品が多い。故に、少なくともヒンデミットの音楽創作に関して、彼の第1期から第2期までの作品を表現主義と新即物主義の観点から明確に線引きすることは非常に困難であるように思われる。創作時期を問わず、ヒンデミット作品の多くから感じるアンビヴァレントな気分は、彼の音楽が内包する機械的な激しい律動性と音響のどぎつさ、そして唐突に現れる協和音がもたらす冷めた寂寥感によって印象に刻まれる。
一方で、研究者によってはヒンデミットの創作史における新即物主義を新古典主義として捉える事例や、第3期以降を新古典主義(場合によっては新ロマン主義)と位置付ける研究も多く存在する。これに関しても、「ネオ・バロック」という言葉に象徴されるように、新古典主義的特徴は確かにヒンデミットの新即物主義時代(第2期)に並存しているが、彼の第2期がもっぱら復古性に彩られているわけでは決してない。第3期を敢えて第2期とは異なる意味合いで新古典主義と評価するならば、その根拠として第1期や第2期に見られた前衛的な書法が影を潜め、ヒンデミットが自身の音楽理論に基づく様式的に安定した創作へと移行したことに言及できるが、それは単なるマンネリズムとしてではなく、彼が理想とした音楽の自律性と聴衆の感受性を調和する試みとして評価すべきであろう。例えば、ヒンデミットが初めて伝統的な4楽章構成で作曲した《交響曲変ホ調》(1940)や、L. v. ベートーヴェンを引用した《シンフォニア・セレーナ》(1946)は、当時のアメリカの管弦楽団と聴衆の需要に応えるような絢爛さを備えており、ハリウッドの映画音楽を彷彿とさせるスペクタクル性に富んでいる。
従って、ヒンデミットの作品を解釈する際は、上述した様式概念を前提とするよりもむしろ、彼が音楽史の伝統に裏打ちされた作曲技法を駆使しながら、常にその時代ごとの音楽的・社会的アクチュアリティを作品において達成したということを念頭に置いておきたい。それが、芸術音楽とポピュラー音楽の間の断絶が決定的に深刻化する時代を生きたヒンデミットによる「革新」であり、20世紀音楽史における遺産である。
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