《舟歌》第2番の自筆稿には「Taverny-aout, 1885(タヴェルニー―8月、1885年)」の表記が入っている (*1)。1885年の夏、父親の死(7月25日)に伴い一旦トゥールーズへ立ち寄ったフォーレは悲しみに暮れる間もなく、7月末日にはベルギーのアントウェルペンで開催された万国博覧会へ出かけていた。8月3日に予定されていた自身の《交響曲 ニ短調》作品40の再演(初演は同年3月)に立ち会うためだ。結局この公演はキャンセルになり10月にダンディに指揮されるまで延期されるのだが、いずれにしてもアンヴェールから戻った後、フォーレは8月半ばまで家族とフランス中部のネリNérisにいたようである (*2) 。
書簡から分かるのは以上の事柄のみで、あいにく《舟歌》第2番作品41に直接関連する本人の証言は見当たらない。しかし、フォーレの次男フィリップによれば、フォーレの父親逝去の前後に妻マリーと子どもたちは、自筆譜にあるパリ北部郊外の街タヴェルニーの友人宅に身を寄せていた(*3) 。したがって、《舟歌》第2番は一連の旅行が終わった頃に書かれたものと推測できる。
また、フォーレは1922年から24年にかけて最初の6つの《舟歌》の改訂作業を行い、その改訂稿は1926年に『6つの夜想曲と5つの即興曲』として出版された。改訂の内容について、例えばフォーレ自身は書簡の中で、第5番の終わり部分のことに言及している(*4) 。そしてこの第2番に関しては、自筆稿と1886年稿、1926年稿との間の相違点がフォーレ全集(*5) において指摘されている。
まず「自筆稿および1886年稿」と「1926年稿」との間には、冒頭の楽想記号と速度記号に差異が見られる。自筆稿と1886年稿では冒頭のAllegretto quasi Allegroとは別にレッジェーロ(leggiero)という楽想記号が付されているのに対して1926年稿ではそれが削除されている。速度表示については、自筆稿と1886年稿では付点四分音符=76であるのに対して、1926年稿では付点四分音符=58と改められている。
次に「自筆稿」と「1886年稿および1926年稿」との比較では、アルペッジョ記号の掛かり方に大きな違いがある。最高音以外のバスから内声部のみに付されているアルペッジョ記号は、自筆稿では所々で最高音を含む全ての音に掛けられている。具体的には第1−2小節、第7、10-12小節などに当該箇所があり、全集の校訂では自筆稿が反映されている。自筆稿のアルペッジョ記号に従えば、フレージングはより短いものになるとも解釈できる。さらに冒頭の速度記号やレッジェーロ記号と併せて考えれば、元々この作品は一層軽やかな曲想を持っていたとも言えるだろう。
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*1 Ms. 17740(フランス国立図書館所蔵)。«aout»のアクサンは抜けている。
*2 1885年7月1日付けの友人プジョーへ宛てた書簡で、8月16日までネリにいることを予告している。Cf. Gabriel Fauré, Gabriel Fauré Correspondance, textes réunis, présentés et annotés par Jean-Michel Nectoux, Paris : Flammarion, 1980, p. 121.
*3 Gabriel Fauré, Lettres intimes, présentées par Philippe Fauré-Fremiet, Paris : Bernard Grasset, 1951, P.11.
*4 Op. cit. 1980, p. 330.
*5 Christophe Grabowski (éd.), Gabriel Fauré œuvres complètes, SérieVI œuvres pour piano, volume 2, Ballade op. 19, Barcarolles, Valses-Caprices, BA 9468 Bärenreiter 2012, éditées par Christophe Grabowski, Kassel, Basel, London, New York, Praha : Bärenreiter, p. 214-215.