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プリューダン 1817-1863 Prudent, Emile (Racine Gauthier)

859

解説:上田 泰史  ( 4726文字 )

更新日:2011年5月18日

エミール・プリューダンは1817年2月3日、パリの南西に位置するアングレームという街に生まれた。しかし、彼の両親についての詳細は知られていない。というのも、彼は出生から間もなく街の調律師に預けられ、エミールは彼を父として育ったと伝えられているからである。プリューダンと幼馴染でジャーナリスト、小説家、劇作家のアルベリック・スゴンAlbéric Second(1817-87)は、「彼の優美な容姿のこのうえない愛らしさと洗練された気品からは、彼がこの年老いた調律師の息子でないことはあきらかだった」と述べている。タールベルク同様、彼が貴族の落胤であったする資料もある。

彼は調律師の父に最初のピアノ教育を受け、才能の片鱗を見せるようになった。10歳の時に上京、まずはソルフェージュ科に入り11歳の時にヅィメルマンが受け持つパリ音楽院のピアノクラスに入学を許可された。

1833年、16歳の時、音楽院での勤勉な日々は修了試験での一等賞という成績に結実した。だがここからが彼の修業時代の始まりだった。35年に彼は《マイアベーアの主題に基づく大変奏曲》作品2を出版するが、最初期の作品はいまだ注目を集めることもなく作曲家として身を立てるには厳しい状況に置かれた。またピアニストとしてプリューダンは演奏会を開きたいと思い雑誌関係者とコネクションのあったスゴンに相談した。スゴンの回想によれば、親友の望みに応えていくつかの雑誌に広告を出すよう手配したものの、当日訪れたのは関係者のみでチケットはたったの一枚しか売れなかった。これが現在確認できるプリューダンの「パリ・デビュー」である。

36年までに彼の父は病で他界したこともあり、彼はレッスンや夜会のダンスのためにカドリーユやワルツを弾いて日々をしのがねばならなかった。

丁度この頃、彼の生涯に大きな影響を残すできごとが起こった。36年にタールベルクがパリで引き起こしたセンセーションである。プリューダンより5歳年上のヴィルトゥオーソは、とくに華麗な分散和音の中に旋律を配置するという目新しい技法でパリの若いピアニストたちの関心を強く惹きつけた。プリューダンの一つ年上にあたる彼の友人マルモンテル(後の音楽院ピアノ科教授)は過剰なタールベルク熱について次のように回想している。

プリューダンは1836年、何度もタールベルクの演奏を聴く機会を得た。我々と同世代の全てのピアニストと同様、彼はこの新しい一派に心打たれ、生み出される効果に感嘆し、もはやこの著名なピアニスト兼作曲家の流儀を同化することしか考えられず、そのことばかりを熱望した。

タールベルクに匹敵する技量を習得せんと意を決したプリューダンは、パリから再び故郷のアングレームに戻ってひたすら練習に打ち込んだ。両手に麻痺をおこすほどの訓練によって一時的に練習を中断しなければならなかったが、着々とパリで成功する準備を整えていった。この時分に彼は結婚し、その後まずナントに居を定め教師として有名になった。スゴンによれば、プリューダンは、遅れて上京してきた彼に宛てて次のように書いたという。

僕はそのうちパリに戻るよ。僕は人に聴かせるべき作品を作曲したんだ。僕の全盛期がほどなくやってくるのを思い描いているよ。来週の月曜、8時丁度からシテ・ベルジェールを散歩して、二番地の四階を見あげてくれ。

かくしてプリューダンはパリに戻ってきた。その日スゴンが聴いたのは《ランメルモールのルチア》作品8だったという。この曲は42年に出版され、ヒット作となった。この作品をプリューダンは生涯にわたって演奏会で取り上げた。

この成功でプリューダンの名声は急速に拡大する。その第一歩は1842年4月にパリのイタリア座で行われたリサイタルだった。このときの共演者はまさにタールベルクその人であった。この成功で弾みをつけたプリューダンは、パリにとどまらずフランスの地方都市、ドイツ、スペイン、ベルギー、オランダ、イギリスの各都市を巡演するツアーピアニストの人生を歩み始める。彼は《ベッリーニの「清教徒」による練習曲=カプリス》作品24や《セギディーユ》作品25を携えて行く先々でセンセーションを引きおこした。彼に熱狂したのは市民だけではない。1845年、ベルリンを訪れたプリューダンは、王宮で時のプロイセン王ルードヴィヒ・ヴィルヘルム4世の御前で演奏し、王の叔父にあたる「メクレンブルク=シュトレリーツ公爵のピアニスト」という称号を与えられた。後の作《エチュード=リーダー》作品16はこの公爵に献呈されている。

当時の音楽雑誌は各地で彼が引き起こした熱狂を生き生きと伝えている。1847年1月31日、『ル・メネストレル』紙はトリノでの成功ぶりを次のように報告した。

エミール・プリューダンは覇者としてイタリア旅行を始めた。トリノでの滞在は素晴らしいものだった。アンジェンヌAngennesの劇場で開かれた彼の2回目の演奏会では300人の入場拒否が余儀なくされた。国王陛下の規律によって自由に使用できるレジーオRegio座での最後の演奏会ではホールは満杯になり、2000人もの聴衆が集まった。王妃、王子たち、宮廷の全員がこの演奏会に臨席した。

今や時の人となったプリューダンは、1847年にレジヨン・ドヌール勲章を受けたほか、国内外で数々の勲章を得た。48年には師ヅィメルマンの引退に際しマルモンテルアルカンとともにピアノ科教授候補に名前があがった。パリにいることの少なかったプリューダンよりも音楽院に長く務めていたマルモンテルが選出されたのはやむなきことであった。

その後も、彼はツアーピアニストとしての経歴を歩み続ける。1849年1月21日、『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル』紙(以下RGM)はオランダでの異様なまでの熱狂を次のように報じている。

[オランダのヘーグで開かれた] 彼の最初の演奏会はフランス座Théâtre-Françaisで行われたが、ホールは超満員だった。彼の美しい《ユグノー教徒》に基づく幻想曲[op.18]は多大な効果を生み出した。この曲を演奏し終えるとプリューダンはホールの聴衆全員によって呼び戻され、10回繰り返された嵐の様な喝采でざわめく劇場の舞台に繰り返し戻らねばならなかった。アンコールされた《セギディーユ》[op. 25]は、このソワレの最後を飾った。この演奏会ののち、オーケストラは自らこの大芸術家の窓の下で演奏し、その後には劇場から出てきた人、あるいはこの熱烈な歓迎ぶりの目新しさに引き寄せられた人が1500人従った。

しかし、プリューダンを支持したのは公衆や貴族ばかりではない。見識ある音楽家、批評家たちはピアニストとしてばかりでなく作曲家としてのプリューダンの才能を高く評価した。例えばベルリオーズは1853年にオーケストラ付きで演奏されたプリューダンの《妖精の踊り》作品41をパリで聴いて次のように述べている。

[…]プリューダンはこの晩、二重の成功を収めた。ヴィルトゥオーソ[としてのプリューダン]が作曲家[としてのプリューダン]に優っていたのか私には何とも言えない。

彼の《妖精の踊り》という作品は、昨年ロンドンでオーケストラなしのを聴いたが、私の知る限り最も詩的で甘美なものの一つだ。[…]これは詩であり絵画である。オーケストレーションは甘美で穏やか、神秘的な響きのする和声、陽気な旋律の戯れ、すべてがそこにはある。ピアノの走句は意味の空虚な線ではない。それは妖精的旋律の連鎖であり、それらはとめどなく流れきらめき、ピアノだけが完全に表現できる着想に他ならない。プリューダンの《妖精の踊り》は全体として音楽界に導入された新しく夢想的な曲だ。認めるべきこうしたことがあるということは、私にはそうしばしば起こることではない。

(RGM, 1853. 4.10, no.15, Journal des debatsからの引用)

管弦楽の大家にして妥協のない批評家ベルリオーズのこうした評価は、大衆的なヴィルトゥオーゾというイメージだけでなく、芸術的才能を兼ね備えた作曲家としてのプリューダンのイメージを伝えている。

作曲家プリューダンの名声を確固たるものにしたのは1847年以降彼が各地で演奏した《協奏曲=交響曲》作品34である。例えば1849年3月11日、音楽雑誌『ル・メネストレル』には次のような報告を見出すことができる。

[…]《協奏曲=交響曲》は公衆と芸術家の特別の好意に値する作品だ。これはオーケストラが真に協奏的な役割を果たしており、エミール・プリューダンをピアニストの階級から連れ出し、彼をシリアスな作曲家の列へと引き上げる作品だ。

1856年に上演した第2協奏曲《牧草地》作品48で大規模作品を書く能力を有する作曲家としてのステータスを確実なものにしたプリューダンは、その一方で50年代、華々しいファンタジーよりも描写的な小品を多く書くようになった。1840年代以来、フランスピアノ界の旗手として外国人ピアニストたちに劣らぬ比類ない活動を展開したプリューダンは、63年の4月、ドイツとの国境に近いフランスの都市メスで《妖精の踊り》や《さらば、春よ》を演奏して大成功をおさめていた。突然の死が彼を襲ったのはそのわずか一ヶ月後の5月14日だった。享年47。マルモンテルは病名を偽膜性アンギーナと伝えている。プリューダンの葬儀はサン=ヴァンサン・ド・ポール教会で行われた。儀式はベルリオーズ、H. エルツ、アルベリック・スゴン、批評家のエドゥアール・モネが主導し、プリューダンと何度も共演したイタリア座のオーケストラが駆け付けて彼の棺を音楽に乗せて見送った。彼の遺体は今でもパリのモンマルトル墓地に眠っている。


プリューダンの演奏する姿は独特だったと伝えられている。マルモンテルはその様子について次のように述べている。

長くてつやがあるが、癖のある髪のせいで、このヴィルトゥオーソはしばしば頭を動かして、その髪を後ろに投げやることがあった。この癖は、少々荒っぽい表現を余儀なくされる華麗な曲を演奏する間、プリューダンには大変よくみられた。

ある音楽雑誌に掲載された下ページに示すカリカチュアは彼の幾分奇抜な演奏スタイルを伝えている。マルモンテルが指摘するように、彼の身振りに向けられた批判的視線はしかし、彼の演奏の表面をとらえているにすぎなかった。彼の演奏は、身振りで細部をごまかすような粗雑でぶっきらぼうなものではなかったようだ。オランダのヘーグで《交響曲=協奏曲》を演奏したとき、地元紙は彼の演奏の様子を次のように伝えている。

彼の演奏は繊細であると同時に澄んでいて、輝かしく表情豊かで、彼の逸脱のなかには思慮分別があり、敏捷さと非凡な繊細さが備わっている。すなわち、彼の手にかかれば困難など存在せず、それほど彼は鍵盤を易々と演奏し、いわば鍵盤に触れているような気配がしないのだ。

(RGM, 12. 31 no.5, Journal de La Hayeからの引用)

プリューダンは生来手が小さかった。そのため、リストやアルカンのように和音を連打してピアノからシンフォニックな効果を引き出すことは彼にとって得策ではなかった。そこで彼は手の開きに重点を置いて歌唱的旋律と分散和音を主体としたタールベルクの書法に着目し、それを同化して自身の様式を探究したといえる。

彼は自作ばかりでなく、時折バッハヘンデルのプレリュードとフーガ、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタも演奏した。

執筆者: 上田 泰史 
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