ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)は存命中からすでに特別な位置づけを獲得しつつあったが、死後、その存在は直ちに神格化され、音楽史における巨匠となった。ポスト・ベートーヴェン時代の多くの音楽家が彼のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲、交響曲を創作の規範とし、そのスコアを熱心に研究した。
青年ロベルト・シューマンもその一人だった。1831年にリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)がベートーヴェンの第9交響曲のピアノ編曲に取り組んだように、シューマンもほぼ同じころ、第1楽章、第249小節まで(展開部フガートの終わり近く)の編曲を作成した。原譜に極めて忠実だが、あまりに広い音程が随所にあること、そして克明な楽器名表記が見られることなどから、この編曲は演奏や出版を目的としたものではなく、あくまで作品研究のためであったとみなされる。
ベートーヴェン作品を学び研究するなかで、シューマンはこの巨匠の主題に基づく練習曲の作曲を決意した。1831/32年には《ベートーヴェンの主題による自由な変奏形式の練習曲》のドイツ語タイトルのもと、交響曲第7番、第2楽章 アレグレット、イ短調の主題に基づく11の練習曲(うち第9曲と最終曲は未完)を作曲した。
1833年、今度は9曲(3曲は未完)からなる第2稿が仕上がった。そのうち6曲は初稿に基づくが、配列の順序は大きく変更され、その他の3曲は新たに作曲された。タイトルはフランス語の《ベートーヴェンの主題に基づく練習曲》に変わり、後に妻となるクララ・ヴィーク(1819-1896)に献呈された。
さらに同年、7曲からなる第3稿(最終稿)《エグゼルシス Exercices》(日本語では同じ「練習曲」と訳出されているが、原語は初稿時の「Etuden」と異なる)が完成した。ここでは、初稿、第2稿での曲順が再び入れ替えられると同時に、いくつかは削除され、2つの新曲が加わった。すべてがイ短調で、最も短い最終曲はわずか14小節、長いものでも第5曲の32小節と、いずれも小品である。(現在の『新シューマン全集』では最終稿のタイトルとこの7曲が採用されているが、一般には初稿時のタイトル《ベートーヴェンの主題による~》が流通しており、また、初稿と第2稿からそれぞれ4曲、計8曲を取り交ぜた「主題提示と15の変奏曲」として演奏される機会が多い。)
最終稿は、ベートーヴェンの原曲と同じく、イ短調の主和音(第2転回形)の響きを合図に第1曲が始まるが、7曲のうち、第7交響曲のアレグレットが原型であることを明確に示すのは事実上第4曲だけで、そこではソプラノ声部がそのリズム(♩ ♫ ♩ ♩)と旋律を模倣する。ベートーヴェンのオマージュとして象徴的なのは最後の第7曲で、それは第9交響曲の第1楽章冒頭、弦のトレモロを思わせる伴奏と4度(A-E)および5度(E-A)の下行動機を素材とする。しかし第7交響曲とのかかわりも持っていて、途中、冒頭楽章の主題の一部が2小節間顔を出す。
この曲の出版は作曲から140年余りを経た1976年、ミュンヘンのヘンレ社版が初めてとなった。(例外は第2稿の第5曲で、1854年に、それまでに作曲した小品20点を集めた《音楽帳》Op.124の第3曲〈苦痛の予感 Leides Ahnung〉として出された。)つまり、作品番号のない習作としてその後長い間、お蔵入りの運命をたどってきたわけだが、1834-35年頃、シューマンは最終稿の清書譜を仕上げていたのである。このことはシューマンが当時、この曲の出版を模索していた可能性があったことを伝えている。作曲家としてのキャリアを開始した1830年代のシューマンにとって、創作の指標とすべき巨大な存在「ベートーヴェン」と、この時期の数々のピアノ曲で手がけた「練習曲 Étude」ジャンルとを組み合わせたこの作品に対して、強い思い入れがなかったはずはない。