作品概要
解説 (2)
執筆者 : ピティナ・ピアノ曲事典編集部
(328 文字)
更新日:2010年1月1日
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執筆者 : ピティナ・ピアノ曲事典編集部 (328 文字)
シューマンがまだ19歳の時に作曲されたが、後に何度か手を加えて、1832年に完成されている。シューマンには珍しい、技巧を追及した1曲で、はじめはピアニストを志していたというシューマンだけにかなり弾きにくく込み入って書かれている。ピアニストを大いに悩ませる曲だが、ピアニストの自慢の技巧を披露する曲にもなっている。
僅か2小節のシンコペーションのリズムが力強く登場して曲は開始され、このリズムをモチーフに細かい機械的な運動が続いていく。中間部はイ短調に転じて、オクターヴの細かい連打によるメロディーが活躍する。全体にかなり活気溢れた運動性の強い曲だが、叙情的なメロディーや緻密な和声、対位法的書法までもが盛り込まれ、変化に富んだ様々な作曲技法が光る名曲である。
総説 : 上山 典子
(1426 文字)
更新日:2018年3月12日
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総説 : 上山 典子 (1426 文字)
16世紀半ばの北イタリアに由来し、バロック期に興隆したトッカータは、速く細かな音型や技巧的なパッセージを伴う即興性を特徴とする。1830年代に創作されたシューマンの《トッカータ》ハ長調、2/4拍子もまた、速度が速く、16分音符の技巧的な動きが目立つ、極めて高度なヴィルトゥオーゾ的作品である。
しかしシューマンがその名称で示唆した形式は、バロックの伝統ではなかった。曲の構成は即興的性格からはほど遠く、非常に明白な区切りを持つ提示、展開、再現部にコーダ、そして主題とは対照的な性格を持つ属調の副主題にも明らかなように、ソナタ・アレグロ形式を示している(各部の開始はいずれも、シンコペーション・リズムによる2小節の決然とした序奏で合図される)。
作曲はOp.1(《アベッグ変奏曲》)と同じころにまでさかのぼる。自筆譜が残されている1829-30年の初稿は184小節と短く、《エグゼルシス Exercice》と記されたタイトルの通り、3度やオクターヴ音程といった同じ種類の和音型が多く連なる、いかにも訓練用の課題曲風の内容だった。当時のシューマンはハイデルベルク大学に籍を置きながらも、ほとんど授業には出席せず、コンサート・ピアニストになる夢を抱いて1日7時間の練習をこなす日々だった。
1830年、音楽の道に進むことを決意したシューマンは同年10月以降、著名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)に師事するも、1832年には右手の指に深刻な障害が出始め、ピアニストへの道を完全に諦めざるを得ない状況に陥った。初稿の《エグゼルシス》が、《練習曲 Étude》や《重音による幻想的練習曲 Étude fantastique en double-sons》といったタイトルの変遷を経たのはちょうどこの時期に当たる。
続く1833年、作曲家として生きる道を選んだ23歳のシューマンは、283小節に拡大した最終稿《トッカータ》を完成させた。それは冒頭主題と要求される演奏技巧の高さを除き、内容、形式ともに初稿とはほとんど別の作品と言ってよいものとなった。また様々な指示が書き込まれていた初稿とは異なり、翌1834年5月にライプツィヒのホフマイスター社から出された譜には指使いも演奏に関する指示もほとんど見当たらず、ただ次のような注書きが添えられていた――「演奏者に可能な限りの自由を与えるために、誤解が生じる恐れのあるパッセージにのみ明白な指示を書き入れた」。
後のシューマンは、この時期に創作したピアノ曲に対していくぶん否定的な姿勢を示すようになるが、自身で「しばしば、そして独特に」弾いていたという《トッカータ》はお気に入りの曲であり続けた。ドイツだけでなく、1840年にはパリのリショー社からも出版させたほどだった。また、後に妻となるクララ(1819-1896)が夫ロベルトの作品を公の演奏会で披露するようになるのは、彼女のピアニストとしてのキャリアも後半になってからのことだったが、《トッカータ》は出版直後から彼女の重要なレパートリーになっていた。(因みに、クララが《パピヨン》Op.2を公の場で演奏したのは、夫の死から15年も経た1871年が初めてだった。) さらに、当時の音楽雑誌もこの難曲のオリジナリティと革新性を極めて好意的に評していた。冒頭から最終小節に至るまで、情熱と高揚を保ちながら駆け抜けるこの緊張感は、見事としか言いようがない。
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