コープランド 1900-1990 Copland, Aaron
解説:齊藤 紀子 (822文字)
更新日:2008年8月1日
解説:齊藤 紀子 (822文字)
アメリカ合衆国の作曲家。ニューヨークに生まれ、同地で亡くなる。ユダヤ系ロシア人の両親の5番目の子どもとして育った。『Our New Music』というタイトルの自伝を1941年に出版している。この書物は、邦訳版も出ている(『現代音楽入門』塚谷晃弘訳、1957年)。コープランドの生まれ育った家庭には、音楽があふれていたわけではない。10代の半ば頃に自らの意志で作曲を志し、作曲家カロイ・ゴルトマルクの甥、ルービン・ゴルトマルク(Rubin Goldmark, 1872-1936)に和声を師事した。1918年に高等学校を卒業すると、ハイドンやベートーヴェン、ショパン、ワーグナー、ドビュッシー、スクリャービンなどの作品を勉強する傍ら、歌曲やピアノの作曲を始めた。そして、1921年から約3年間、フランスへ留学したことがコープランドの後の創作活動に対する転機となる。
フランスで手がけたデビュー作品、《オルガンと管弦楽のための交響曲》(1924)を携えて渡米すると、クセヴィツキーに目をかけられ、アメリカ作曲家連盟の委嘱を受けた。そして、それ以後、グッゲンハイム奨学金の受賞(1925年及び1926年)、RCAビクターのコンクールの入賞などを通して、コープランドの名が広く知られるようになっていった。《アパラチアの春》(1944)では、1945年度ピュリツァー賞ならびにニューヨーク音楽批評家賞を受賞している。その後も、代表作を数々生み出すが、1970年頃を境に寡作となる。
コープランドは映画音楽も手がけ、指揮も振り、音楽の教授や評論に携わるなど活動の範囲がきわめて広かった。生涯を通して作風の変化が大きく、初期の作風はジャズの手法を好んで用いるものであったが、その後、新古典主義に傾倒していった。後年は、12音技法や電子音楽、ミュージック・コンクリートも採り入れている。1920年代以降の作品には、現代音楽の流れの一つを見出すこともできるだろう。
作品(23)
ピアノ独奏曲 (8)
曲集・小品集 (3)
性格小品 (2)
種々の作品 (7)
ピアノ合奏曲 (1)