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リヴァディッチ 1799-1879 Livadić, Ferdo

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  • 解説:西井 葉子 (1060文字)

  • 更新日:2020年10月1日
  • フェルド・リヴァディッチ(1799−1879)は、19世紀のクロアチアにおけるロマン派音楽のみならず、ヨーロッパのロマン派音楽の発展に貢献した作曲家で、約180曲の歌曲、30曲ほどの教会音楽、行進曲や舞曲(ポルカ、クアドリル、ワルツ、輪舞曲)などのピアノ作品を残している。クロアチアで最初の、また最もよく知られている愛国歌《Još Hrvatska nij' propala》の作曲者としても知られている。

    リヴァディッチは、1799年5月30日、オーストリア=ハンガリー帝国領のツェリエ(現在のスロヴェニア東部に位置する都市)に生まれた。クロアチアのサモボルとザグレブ(いずれも、当時は、オーストリア=ハンガリー帝国領)で音楽の勉強をした後、裁判官だった父の希望もあり、1816年より、グラーツの大学で法律の勉強をするが、同時に、ベートーヴェン(1770−1827)シューベルト(1797−1828)の友人でもあった著名な作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナー(1794−1868)のもとで音楽の勉強を続け、このグラーツで、最初期のロマン派音楽に触れることになる。リヴァディッチは、そのロマン派音楽をクロアチアに最初にもたらした作曲家として、クロアチアの音楽史上、大変重要な作曲家である。

    1822年、大学を卒業したリヴァディッチは、サモボルの実家(現・サモボル博物館)を相続することになったため、サモボルに戻り、それ以降、57年間、このサモボルの邸宅で、国内外の重要な政治家や作家、詩人、作曲家などをもてなした。その中には、フランツ・リスト(1811−1886)も含まれ、1846年夏、コンサート・ツアーでザグレブを訪れていたリストが、このサモボルのリヴァディッチ邸を訪れたと伝えられている。この時、リストも弾いたと言われるリヴァディッチのピアノは、現在も、サモボル博物館に置かれている。

    愛国者として知られるリヴァディッチは、社会的・政治的な活動にも積極的であった。彼は、19世紀のクロアチア人知識層を中心に展開された「イリリア運動」と呼ばれるクロアチア民族復興運動における重要人物の一人であり、リヴァディッチ邸は、その「イリリア運動」の拠点でもあった。サモボル市の市長や副市長、サモボル学校の校長なども務めている。1879年1月8日サモボルで亡くなった。

    参考文献:
    Andreis, Josip. (1989),
    Povijest glazbe 4. Zagreb: SVEUČILIŠNA NAKLADA LIBER

    執筆者: 西井 葉子
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    作品(2)

    ピアノ独奏曲 (2)

    ノクターン (1)

    ノクターン ノクターン 嬰ヘ短調

    調:嬰ヘ短調  作曲年:1822 

    楽譜0

    編曲0