メシアンは1950年代前半、パリ音楽院の試験曲として委嘱された《クロウタドリ》(1952、フルートとピアノ)、鳥類学者ジャック・ドラマンの領地で採譜した鳥の歌にもとづく《鳥たちの目ざめ》(1953、管弦楽とピアノ)、世界各地の鳥の歌を扱ったドメーヌ・ミュジカル(註1)の委嘱作品《異国の鳥たち》(1955~1956、器楽アンサンブルとピアノ)を世に送り出し、「鳥」を創作上の重要なインスピレーションに据えた。
《鳥のカタログ》(1956~1958)は、これらの作品で試みた鳥の歌のピアノ書法を総合する機会をメシアンに提供した。本作品では、パリからブルターニュの辺境に至るまでのフランス各地に生息する鳥の歌が扱われるが、この作品が《鳥たちの目ざめ》および《異国の鳥たち》と異なるのは、《鳥のカタログ》がメシアン自身の度重なる採譜旅行の成果の所産であること、そして各土地の景観をも音楽化の対象としていることである。
《鳥たちの目ざめ》は、限られた範囲の土地で採譜された鳥の歌を用いた作品であり、《異国の鳥たち》の作曲に際しては鳥の歌のレコードが用いられた。 構想は1953年にさかのぼる。同年10月にバーデン=バーデンの黒い森でメシアンが記したスケッチには、「ピアノ用」として多数の鳥の名が列挙されている。その後メシアンは、音楽活動上の重要なパートナーであり1961年に妻となったピアニスト、イヴォンヌ・ロリオ(1924~2010)とともに、自動車でフランス各地を旅して採譜を行った。部分初演は1957年3月30日、サル・ガヴォーにおいて、ドメーヌ・ミュジカルの演奏会でロリオによって行われた。このとき演奏されたのは、演奏順に第1曲〈キバシガラス〉、第6曲〈モリヒバリ〉、第5曲〈モリフクロウ〉、第2曲〈ニシコウライウグイス〉、第8曲〈ヒメコウテンシ〉、第13曲〈ダイシャクシギ〉である。第7曲〈ヨーロッパヨシキリ〉はこのときすでに完成しており、プログラムにも載っていたが、演奏は行われなかった(註2)。
当初演奏時間17分だった本作品は、1957年夏に全面的な書き換えが行われ、当初のほぼ2倍におよぶ長さとなった。6月に行われた地中海沿岸での採譜は、第3曲〈イソヒヨドリ〉、第4曲〈カオグロサバクヒタキ〉、第12曲〈クロサバクヒタキ〉の素材を提供した。1958年1月25日には〈ヨーロッパヨシキリ〉第2稿が初演され、1959年4月15日、同じくドメーヌ・ミュジカルのメシアン生誕50周年記念演奏会で、ロリオが全曲初演(休憩1回、合計約3時間)を行った。出版は、それまでメシアンの主要作品を出版してきたデュラン社ではなくルデュック社から行われた。デュランは、《鳥たちの目ざめ》の初演が不評に終わったことから、鳥をテーマとする作品の出版には慎重な姿勢をとっていた。1957年、メシアンはついにデュランとの契約を破棄し、以後はもっぱらルデュックに出版を委ねるようになる。 (註1)
1954年にピエール・ブーレーズによって設立された現代音楽演奏会シリーズ。1953年にブーレーズが設立した小マリニー演奏会を前身とする。 (註2)この演奏会では、他にミシェル・フィリッポ《10楽器のための変奏曲》(1957、初演)、ルチアーノ・ベリオ《フルートと14楽器のためのセレナータI》(1957、初演)、ボー・ニルソン《周波数 コンポジション第6番》(1956)、ブーレーズ《フルートとピアノのためのソナチネ》(1946)が演奏された。