第一次世界大戦中の1916年にパリにて完成。友人で作曲家のアンリ・クリケ(Henri
Cliquet)に献呈された。ミヨーは身体上の理由で兵役を免れ、パリ市内で避難民救済所の
任務に従事したが、1915年9月に詩人であった親友レオ・ラティル(Leo Latil)が25歳の若
さで戦死した衝撃はことのほか大きく、ラティルの霊前に捧げた《弦楽四重奏曲第3番》(Op. 32)を始め、この時期には暗く沈んだ作品が目につく。1916年末にブラジルへの赴任が決まったポール・クローデルがミヨーに秘書官として同行するよう要請したのも、友の死に沈むミヨーを見かねてのことであったとも推測される。いずれにせよ本作はブラジル渡航以前の、苦悩の時代の所産である。
本作自体には暗さはなく、全体に明朗快活で雄弁なメロディが横溢し、ミヨーが閉塞感を
打開しようとの意志をもって作曲にあたったことが見てとれる。重厚で力感のある和音塊
の衝突や垂直方向への積み上げによる多調は、前作《組曲》(Op. 8)の手法を先鋭化させ
たものであるが、後年の洗練された和声法に親しんだ耳には刺激が強く無骨に響くことも
否定できない。いっぽう、伝統的なソナタ形式を意識した主題労作や、動機の活用、反復
、循環はミヨーの初期作品に顕著な特色であり、コルトーは本作の構成力を高く評価して
いる。粗削りながらも前のめりに疾走する両端楽章の野趣に富んだ推進力、緩徐楽章のデ
リケートな表情など、多くの美質が忘れがたい印象を残す秀作である。
初演は1920年、パリの Salon Automne にてマルト・ドロン(Marthe Dron)により行われ
た。ドロンはリカルド・ビニェスと組んだ2台ピアノでラヴェルの《耳で聴く風景》を初
演したことでも知られる。ミヨー自身は1920年の Courrier Musical 誌への寄稿においてド
ロンの演奏を称賛しながらも、作品が重厚長大に過ぎると自ら苦言を呈している。後年、
ミヨーは第2楽章の中間部以降を大幅にカットする改訂を施した。現在はこの改訂版(1984年、サラベール社刊)が一般に流通している。ジェレミー・ドレイク(Jeremy
Drake)は改訂の時期を1960年代と推定している。初版を採用すると演奏時間が約2分半長
くなる。ミヨーが自作を改訂することはまれで、本作はその点で異例の作品といえる。
第1楽章 Décidé 決然と。4分の4拍子、ハ長調。
第2楽章 Pastoral (Modéré) 牧歌(中庸に)。8分の6拍子、ト長調(調号なし)。
第3楽章 Rythmé 律動的に。4分の2拍子、ハ長調。