〈愛の挨拶〉や〈威風堂々〉などで知られるイギリスの国民的作曲家エドワード・エルガーの出世作。 原曲は、主題と14の変奏曲からなる管弦楽のための作品である。ピアノ独奏版はエルガー自身の編曲によるもの。
この曲はエルガーが40代に差し掛かった1898年に書かれ、翌1899年にハンス・リヒターの指揮により初演され、大成功を収めた。この成功により、エルガーの名は世界的に有名なものとなり、続く〈威風堂々〉の成功へとつながる足がかりとなった。
正式な曲名は〈創作主題による変奏曲〉であるが、スコアの最初のページに「エニグマ」と印刷されていたことから、〈エニグマ変奏曲〉とも呼ばれるようになった。「エニグマ」とは、ギリシャ語で「なぞなぞ」「謎解き」「謎かけ」といった意味である。
エルガーがこの曲に込めた「謎」とは何であったのだろうか。エルガーはこの変奏曲に2つの「謎」を隠したと言われている。1つ目の謎は、変奏曲1つ1つに付けられたイニシャルにある。エルガーは、14の変奏曲に友人たちの愛称や頭文字を付け、彼らの個性を表すような曲を書いたのである。そして、エルガーは「個人的なことだから」と個人名を明らかにせず、謎のままに残し、この曲を謎の14人の友人たちに献呈したのである。
主題と14の変奏曲の楽曲の詳細と謎解きは、以下のとおりである。
■主題「エニグマ(謎)」 アンダンテ、4分の4拍子、3部形式。 冒頭の6小節までのA部分はト短調、続く4小節間のB部分は同主調であるト長調で書かれている。11小節以降は再びA部分に戻りト短調になる。
■第1変奏「C.A.E」 リステッソ・テンポ、4分の4拍子、ト短調。 ロマンチックで繊細な変奏曲。このイニシャルは、エルガーを生涯にわたり献身的に支えてた最愛の妻Caroline Alice Elgarのこと。有名な〈愛の挨拶〉は、エルガーが妻アリスにプロポーズ代わりに贈ったもので、変奏曲の冒頭に夫人の描写を描くのは、愛妻家エルガーの人柄がよく出ている。3連符を含む音型は、エルガーが帰宅を知らせる時に吹いていた口笛から来ている。
■第2変奏「H.D.S-P」 アレグロ、8分の3拍子、ト短調。 エルガーと共に室内楽を演奏して楽しんだピアニストの友人Hew David Steuart-Powellにちなんだ曲。リズミカルでパワフルなメロディは、彼のピアノの指鳴らしから来ている。
■第3変奏「R.B.T」 アレグレット、8分の3拍子、ト短調。 風変わりな役者Richard Baxter Townsentにちなんだ曲。低い声からソプラノのような高い声まで、変幻自在に出せた人物を表すかのごとく、音域が幅広く、男性ならではの低音域の充実した曲となっている。
■第4変奏曲「W.M.B」 アレグロ・ディ・モルト、4分の3拍子、ト短調。 エルガーの故郷ウスターシャー州の地主で学者のWilliam Meath Bakerにちなんだ曲。ワーグナー好きの精力的な紳士だったという彼の気質をよく表した激しい曲。
■第5変奏曲「R.P.A」 モデラート、8分の12拍子、ハ短調。 詩人マシュー・アーノルドの息子で、学者兼ピアニストのRichard.P.Arnoldにちなんだ曲。感性豊かな人物で、真面目さとウィットさを併せ持った曲想となっている。
■第6変奏曲「Ysobell」 アンダンティーノ、2分の3拍子、ハ長調。 エルガーのヴァイオリン(のちにヴィオラに転向)の教え子Isabel Fittonの愛称。弦をまたぐ練習をしているヴィオラのパッセージがモチーフとなっている。
■第7変奏「Troyte」 プレスト、4分の4拍子、ハ長調。 建築家Arther Troyte Griffithが、苦戦しながらもピアノをがむしゃらに練習しているさまを描いている。
■第8変奏「W.N」 アレグレット、8分の7拍子、ト長調。 18世紀風の館に住む友人Winifred Norburyのイニシャルから取られている。音楽をこよなく愛した人柄を表すように、優雅で親しみやすい曲想となっている。この変奏曲の最後の一音が、次の第9変奏へと伸長されている。
■第9変奏「Nimrod」 アダージョ、4分の3拍子、変ホ長調。 この変奏曲の中で最も有名で、アンコールピースとして単独で演奏されることも多い曲である。 タイトルに付けられた「ニムロッド」とは、エルガーの親友であり、良き理解者でもあったアウグスト・イエーガーの愛称。イエーガーという名は、ドイツ語で「狩人」という意味があり、旧約聖書に登場する狩りの名手「ニムロデ」になぞらえて付けられたという。 イエーガーは音楽誌の編集者で、スランプに陥ったエルガーのことを勇気づけ、励まし続けたエルガーにとってかけがえのない存在。イエーガーは落ち込むエルガーに、同じく度重なるスランプと戦い続けた大作曲家ベートーベンを引き合いに出して、エルガーをスランプの淵から救い出したという。この曲には、そんな2人の想い出の曲として、ベートーベンの〈月光〉の第2楽章の主題がエッセンスとして散りばめられている。
■第10変奏「Drabella」 アレグレットの間奏曲、4分の3拍子、ト長調。 「Drabella」とはモーツアルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」の登場人物で、Dora Pennyの愛称。彼女の話し声や笑い声が音楽によって表現されている。
■第11変奏「G.R.S」 アレグロ・ディ・モルト、2分の2拍子、ト短調。 「G.R.S」は、ヘレフォード大聖堂のオルガニストGeorge Robertson Sinclairのイニシャル。この曲は、彼の飼い犬Danが河の中にはしゃいで飛び込むよう様子を表現している。
■第12変奏「B.G.N」 アンダンテ、4分の4拍子、ト短調。 第2変奏のH.D.S-Pと共にエルガーとトリオを組んでいたチェリストBasil G Nevinsonにちなんだ曲。エルガーが後に書いた名曲〈チェロ協奏曲〉はネヴィンソンの存在なくしてはなかったであろうと言われている。
■第13変奏「***」 モデラートのロマンツァ、4分の3拍子、ト短調。 文字ではなく記号で示されているため、未だに誰を描いた曲なのか謎が解明されていない唯一の曲。メンデルスゾーンの序曲〈静かな海と楽しい航海〉の主題を引用していることが、この曲の謎を解くカギとなっている。貴族の令嬢メアリー・ライゴンだとする説や、エルガーの前の婚約者のヘレン・ウィーヴァーだとする説など、学者の間で今も論議されている。
■第14変奏「E.D.U」 アレグロ−プレストのフィナーレ、4分の4拍子、ト長調。 「E.D.U」とはEdu(エドゥ)、すなわち作曲者エドワード・エルガーのこと。妻アリスがエルガーのことを親しみを込めて「エドゥ」と呼んでいたことから来ている。 自身の自画像的この曲は勇壮な行進曲風に描かれているが、回想的に第1変奏と第9変奏が織り込まれている。第1変奏と第9変奏とは、最愛の妻アリスと、良き理解者であったイエーガーのことであり、エルガーにとってかけがえのない大事な存在であった2人をフィナーレで再び登場させるとはエルガーらしい実にニクい演出である。
ここまでエルガーが〈エニグマ変奏曲〉に込めた2つの謎のうち、曲名のイニシャルに隠された1つ目の謎を解明してきたが、まだ2つ目の謎が残されている。
この謎についてエルガーは、「全曲に連なる演奏されない隠された主題」と解説している。この「隠された主題」については、英国国歌や〈蛍の光〉、〈ルール・ブリタニア〉などイギリスを代表する曲から、モーツアルトやブラームスといったクラシックの名曲にいたるまで、音楽学者によって多くの仮説が立てられているが、解明にはいたっていない。
21世紀に入った今もこの曲の謎は解き明かされていないが、このミステリアスな魅力こそ〈エニグマ変奏曲〉が人々の心を惹き付けて離さない要因なのかもしれない。
エルガーの代表作であるとともに、管弦楽のための変奏曲として、ラフマニノフの〈パガニーニの主題による狂詩曲〉やブラームスの〈ハイドンの主題による変奏曲〉と並び評される曲として、今も世界中の多くの人々から愛されている。