1919年にイギリスを代表する作曲家エドワード・エルガーが作曲したピアノと弦楽四部によるピアノ五重奏曲。
この曲が作曲された1919年にはエルガーはすでに60歳を超えており、第一次世界大戦の激しい戦火が続く中で体調を崩したエルガーは、愛妻アリスからのすすめで1918年から1919年にかけて、イギリス郊外のサセックス州ブリンクウェルズにて静養をとることにした。
都会の喧噪を離れ、緑豊かな落ち着いたブリンクウェルズでの生活はエルガーに合ったらしく、立て続けに〈ヴァイオリンソナタOp.82〉、〈弦楽四重奏曲Op.83〉、〈ピアノ五重奏曲Op.84〉と3曲の室内楽曲を書き上げた。いずれもエルガーの後期作品を彩る名曲ぞろいで、そのことを裏付けるかのように、作曲作業を傍らでずっと見守り続けていたエルガーの妻アリスは、日記に「エドワードは、素敵な新しい音楽を書いている。」と綴っている。
この曲は「マンチェスター・ガーディアン」紙の音楽評論家アーネスト・ニューマンに献呈され、1919年5月21日にロンドンで初演された。初演のメンバーは、エルガーのチェロ協奏曲を初演したフェリックス・サルモンドや、ヴァイオリン協奏曲の最初の全曲演奏録音を務めたアルバート・サモンズなど、エルガーが厚い信頼を寄せる演奏者ばかりであった。
〈ピアノ五重奏曲〉の初演は成功をおさめ、マンチェスター・ガーディアン紙は、「より抒情的かつ情熱的で、偉大なオラトリオ(当時のイギリスでは、イタリアでのオペラの地位に匹敵するほどオラトリオの地位が高かった)にも引けをとることのない理想的な室内楽の見本である」と絶賛した。
それでは、曲について詳しく見ていこう。
この曲は全3楽章からなり、いずれの楽章も10分以上の大曲となっている。これはエルガーの室内楽の中でも最長の長さであり、60歳を超え円熟味を増したエルガーならではといえる。
■第1楽章 Moderato-Allegro、イ短調、4分の2拍子-8分の6拍子。
曲の始まりは、第一次世界大戦の最中の不穏な空気を表すのかのような重々しい雰囲気。楽譜には「serioso」と記されている。 途中、半音階の経過句を挟み、8分の6拍子のAllegroに突入すると、不穏な空気から一転、威厳と荘厳さに満ちた行進曲風の主題が姿を見せる。力強く、勇ましい音楽で、いかにもエルガーらしいパートだ。 4小節の短い経過句を置き、次はスペイン風のテーマが登場する。〈威風堂々〉や〈エニグマ変奏曲〉のイメージからすると意外に思われるかも知れないが、エルガーには「スペイン趣味」があり、この曲の他にも〈ムーア風セレナーデ〉(※「ムーア」とは北アフリカからスペイン南部にいたイスラム教徒のこと)、カンタータ〈黒い騎士〉の中にも見られる。まるで、冒頭の暗い雲に閉ざされた空気が嘘のように晴れ、太陽の日射しが燦々と降り注ぐように明るい音楽となり、スペイン舞曲風の曲想からa tempo,poco animatoを経て、次第に優雅な曲想へとなっていく。
しかし、再びModeratoに戻ると、冒頭のあやしげな空気が立ちこめ始める。すると今度はグレゴリオ聖歌のような祈りとも思えるメロディーが流れ始める。ここには戦争の最中にこの曲を書いているエルガーの平和への熱い想いが込められているのであろう。モチーフが矢継ぎ早に展開され、音楽はどんどん盛り上がってゆく。やがてその盛り上がりが頂点にまで達すると、これまでの行進曲風の主題やスペイン風の主題など、これまで登場して来た全ての主題が丁寧に再現されていく。 一つの楽章の中に数々の主題が登場し、エルガーらしい音楽がたくさん詰まった楽章である。
■第2楽章 Adagio、ホ短調、4分の3拍子。
戦争の暗い影が色濃く出た第1楽章から一転して、第2楽章は穏やかで落ち着いた楽章である。イギリスののどかな田園風景が目に浮かんでくるようで、静養地ブリンクウェルズでのエルガーのゆったりとした暮らしぶりが音楽から感じ取れる。
曲の構成も、第1楽章のようにめまぐるしく主題が変わっていき、毛色の違う音楽が次々繰り出されるのではなく、1曲を通じて落ち着いた曲想の中で音楽が動いている。
この曲の作られた当時は、20世紀に入ってから既に20年近く経っており、ロマン派から脱却して無調など新しい音楽の試みがたくさんなされていた。しかし、この曲は無調音楽やセリー音楽など20世紀の前衛的な音楽手法では書かれていないものの、細部まで緻密に練り込まれた音楽は実に高度で、エルガーの卓越した作曲技法が冴え渡っており、60歳を超えたエルガーの音楽の集大成といえよう。
■第3楽章 Andante-Allegro、イ短調、4分の2拍子-4分の3拍子。
第1楽章にも似た少しあやしげで、しかしロマンチックな曲想からはじまる。拍子が4分の2拍子から4分の3拍子へ変わると、〈威風堂々〉などの行進曲の中間部のトリオを彷彿とさせるような主題が登場する。このテーマはイギリスを代表する作曲家エルガーらしさが光っており、威厳に満ちあふれ、優雅さを誇っており、まさに栄華を極めた大英帝国の繁栄を象徴するかのようである。
しかしながら、このメロディーも永遠に続くわけではなく、途中、弦のトレモロを伴いながら音楽に急に陰りが見えだす。 ここには、19世紀に世界に先駆けて一早く産業革命を起こして以降ずっと世界一の国の座を誇っていたイギリスが、第一次世界大戦に勝ちながらもアメリカに対して多額の戦時債務を背負ったことで、世界一の座を奪われ没落していくことを予見しているかのようである。
エルガーとしても、この曲が完成した翌年に最愛の妻アリスが亡くなり、そのショックから創作意欲を失くしてしまっており、この曲はエルガーの絶頂期の最後の輝きを放っているといえる。
エルガー夫妻はおしどり夫婦として知られ、エルガーの妻キャロライン・アリス・エルガーは、生涯にわたって夫エルガーを支え続けた。エルガーの使用する五線譜はアリスが定規で線を引いたものだったという。元々エルガーのピアノの生徒であったアリスはエルガーと恋に落ちるも、エルガーより8歳年上なうえ、エルガーより身分の高い陸軍少将の娘であったことから、両親から強く結婚を反対され、2人はそれを押し切って結婚している。その時にエルガーがプロポーズ代わりにアリスに贈った〈愛の挨拶〉はあまりにも有名である。