
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1225文字)
更新日:2022年9月20日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1225文字)
マウリツィ・モシュコフスキ Maurycy Moszkowski
(1854年ヴロツワフ[ポーランド]~1925年パリ[フランス])
マウリツィ・モシュコフスキは、ポーランドの作曲家、ピアニスト、教育者。1854年、
ヴロツワフ(当時プロイセン領)で生まれた。彼の両親はザヴィエルチェ近郊の町ピリツァ
からやってきたポーランド系ユダヤ人であり、宗教的儀式を熱心に実践し伝統を大切にする
一家であったが、それは当時としては珍しいことであった。1865年、一家はドレスデンに
移り、マウリツィは同地の音楽院に通い始めた。
1869年、モシュコフスキはベルリンに移住し、シュテルン音楽院に入学、エドゥアルト
・フランクにピアノを、フリードリヒ・キールに作曲を学んだ。その後、テオドール・クラ
クが開設した新音楽アカデミーでクラク本人にピアノを師事する。弟子の秀でた才能に感服
したクラクは、1872年には早くもモシュコフスキにピアノのクラスを受け持たせている。
彼はその後25年間、そこでピアノの指導を続けた。モシュコフスキがピアニストとしてデ
ビューしたのは1873年のことであり、周辺諸都市を巡る演奏旅行に出ている。
2年後、モシュコフスキは学友のフィリップ・シャルヴェンカとともにオーケストラを伴
うピアノ作品の演奏会を企画し、自ら出演した。その演奏会にはフランツ・リストも姿を見
せ、この若き演奏家の才能に心酔する。リストは裕福な聴衆を集めた非公開の演奏会をお膳
立てし、モシュコフスキの作品を2台ピアノ編曲版で演奏した。リストが伴奏を務め、モシ
ュコフスキがソロパートを演奏したのである。その後、モシュコフスキはウィーン、パリ、
ワルシャワなど、ヨーロッパの多くの都市でいくつもの演奏会を行った。古典派やロマン派
の楽曲を主なレパートリーとし、フリデリク・ショパンの作品を頻繁に演奏したほか、自作
品も取り上げた。
1889年3月、モシュコフスキはワルシャワで自らが指揮棒を執り、収益をワルシャワ音
楽協会の拠点建設資金に充てるための演奏会を開催した。その演奏会で彼は自作のオペラ《
ボアブディル、最後のムーア人の王》(作品49)より〈序奏〉と〈バレエ音楽〉を披露し
ている。指揮者としての彼の活動には、1890年2月にワルシャワの大劇場テアトル・ヴィ
エルキで開催した自作披露演奏会、1892年にウィーンで開かれた万国博覧会記念演奏会な
どがある。1897年にパリに移住、また1899年にはベルリン芸術アカデミーの会員となった
。
第一次世界大戦の勃発により、モシュコフスキは投資していた債権の大半を失い、生活に
困窮するようになった。健康問題も重なり、芸術家としての躍進には急ブレーキがかかった
。そんな彼を支援するため、1921年、当時の最も優れたピアニストら総勢15人が出演して
の演奏会がニューヨークのカーネギーホールで催されている。
マウリツィ・モシュコフスキは1925年3月4日にこの世を去った。
解説 : 齊藤 紀子
(183 文字)
更新日:2008年10月1日
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解説 : 齊藤 紀子 (183 文字)
ドイツの作曲家。ポーランドに生まれ、ドレスデン音楽院とシュテルン音楽院、クラック音楽院で学んだ。卒業後は、ベルリンに留まって最終学校でピアノの指導にあたった。ピアニストとしても活躍し、生国のポーランドの他に、イギリスやフランスで演奏した。作品はサロン向けの小品が多い。最もよく知られているのは、2台ピアノのための《スペイン舞曲集》である。生涯の後半はパリで過ごした。
作品(88)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (2)
ピアノ独奏曲 (14)
曲集・小品集 (33)
練習曲 (11)
ワルツ (5)
性格小品 (5)
トランスクリプション (4)
ピアノ合奏曲 (7)
曲集・小品集 (6)
その他の舞曲 (3)