ベートーヴェン :11のバガテル 第1番 Op.119-1 ト短調

Beethoven, Ludwig van:11 Bagatellen Nr.1 g-moll Op.119-1

作品概要

楽器編成:ピアノ独奏曲 
ジャンル:バガテル
総演奏時間:2分00秒

解説 (1)

演奏のヒント : 菊地 裕介 (3423文字)

更新日:2018年3月12日
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11 のバガテルより 第1 番 Op.119-1

■はじめに  

バガテル…「取るに足らないもの」という意味合いのタイトルを持ちながら、ベートーヴェンの「日常への哲学」を垣間見ることのできる貴重な作品である。他に作品33 や、後期の傑作である作品126 がよく知られるが、この作品119は、ベートーヴェンが1790 年代から1820 年代までに渡って書き綴った小品の集まりで、この第1 番は初期のころ、遅くとも1803 年には成立していたであろうと思われる。

 ■自分ならではのストーリーを組み立てよう  

筆者にはこの曲からある男女の重唱が聴こえてきてならない。仮に「取るに足らない」内容だとしても、実に日々の人間模様にあふれた丁々発止が展開されているように見える。小品であることから気分の移り変わりも頻繁で、テンポの良い寸劇を見ているようだ。  

以下のごときストーリー的描写はあくまでも筆者の構想にすぎないので、何らの正当性をも持ちえないが、演奏家による楽譜の「楽しみ方」の一つの事例として、着眼点等を参考にされて各自の世界を作られたい。

●冒頭~  冒頭、やや投げやりな付点リズムを伴って、主調g-mollの属音(D)から半音上がり(Es)跳ね返されるソプラノのアウフタクトの刺繍音が全曲を解く大きな鍵となる。特にこれを動機a と捉え、上昇を否定され跳ね返される半音下行を x とおき、譜面上にプロットしてみた。(余談だが、この跳ね返りによって、冒頭の音が同じでも作品22 のソナタのメヌエットとどれほど違うムードとなるか、感じ取ってほしい。) * 譜例(作品22 3 楽章の出だし)  

16 小節からなる A の部分は、大きく前半A1と後半A2に分かれる。

それぞれ、古典的な2、2、4 小節のフレーズ構成を持っている。

a によって跳ね返された音階は10 度の平行バスをともなって沈み行き徒労感をボヤくが(スタッカートであるからそこまでシリアスな嘆きではない。「ああ、やんなっちゃうわ…」という類のものだ。)、バスあるいはソプラノにがそれぞ れ導音(ややトゲのある響き)に着地するところで2 回、暫し立ち止まり沈黙する。(互いに相手の出方を探っているように…)

この2 回と沈黙を経てバスは再び半ば投げやりに冒頭のソプラノの溜め息のような音階をつまらなそうに確保するのに対して(「やんなっちゃう? そいつはこちらのせりふだよ…」とも言わんばかりに)、ソプラノは溜め込んだ鬱憤を晴らすように大きくアルペジオを反行し休みなく8 分音符を展開する。(しかし結局二人はインベンション的に同じような不満をかわるがわる言っているに過ぎないのだが…「ああ、まったく、いやになってしまう」「なんだって私がこんな思いをしなきゃいけないわけ?」)一方のバスはA1では苦虫を噛み潰したような減3 度を挟みつつ、仮定風の半終止に終わり「この忌々しい気持ちと来たら、いいかげんにしてくれないだろうか?」、A2ではバスの強い断定を伴った全終止となる。 「もう、うんざりだ!おしまい!」(ここでもソプラノは立て続きの倚音で「くどくどと」苛立ちを示しているのだが…)

 ● B ~  A と同じく16 小節からなる B では、筆者は三重唱かそれ以上の演者を聴きとる。(仲裁者が登場したのだろうか? それぞれの現在と過去? はたまた本音と建前? それぞれなにを表し「得る」か、いろいろな想像をして楽しみたい。) ここで特に短調の作品でベートーヴェンが非常に好んで用いた長3 度下の長調(Es-dur)へ転調する。この転調の例は枚挙に暇がないが、例えば悲愴ソナタの第1 楽章と第2 楽章の関係にも見られるように、ここでもg-moll の主音G を共通音としてソプラノに置き、長3 度下にバスを添加することにより瞬時に、するりと滑り込むように空気を甘く和らげる効果をもたらしている。

* 譜例( 悲愴の1楽章と2楽章間)  

 第3 のキャラクターとして現れた内声に見られる半音上行(B → H)は、冒頭のa を示唆するが、ここでは跳ね返されることはなく、もう半音上のC までたどり着いて一種の解放感を演出している。「表面だけ見ていても仕方ない、少し踏み込んで、本当の気持ちを探ってみようじゃないか?」 かように甘いトリオではあるが、全体はA 同様下行するスケールに強く占められている。(しかし溜め息は溜め息でも、うっとりとする溜め息になっていく。)  

第20 小節に見られる平行8 度は、ソプラノが掛留された内声に同意するようにちょこんと乗っかるさまが見えてチャーミングとも言えるが、筆者はソプラノがF-Es であるところの間違いの可能性を、より強く考える。(音部記号の錯誤による写し間違いか?)

第7 小節で噛み潰した苦虫(Es-Cis)は、第21 小節では甘いチョコレートの苦み(Es-Des)にエンハーモニックに変化している。(下属調の甘さに加えて、内声の上方変位に伴い増6 度が形成され、言われようのない高揚感をもたらす。)「あの苦みも、この甘さも、同じ愛ゆえのこと!?」  第27 小節に見られる細かいボウイングも、ここではくどい苛立ちではなく、「苦みの甘さ」を堪能しているかのようだ。「何もかも、見方次第ね!」 その高揚感を受けて第30 小節でこの曲の最高音であるC に到達する。

リピートを済ませたのちに続く4 小節の短いEingang では B の出だしを繰り返すように見えるが、 B で半音上行した内声は、ここで直ちに逸脱し増2 度上行する。これによりムードが一変する。もたらされる増六の和音は、冒頭第3 小節に見られたものとほぼ同様であり、否応なしに疑念が生じる。「いやいや、そんな調子のよい話があるものか?」四六の和音とソプラノの半音階を伴って引き延ばされ たg-moll の半終止をきっかけに A の再帰である A' に突入する。

 ● A' ~  A' は基本的に A と同じ構成であるが、第44 小節に見られる倚音をきっかけに、ソプラノは倚音で、左手は分散和音でともに休符を失って8 分音符が埋まり、皮肉に満ちた苛立ちを募らせる。「夢を見るなんて滑稽なこったい、現実はなんも救われやしないのに!」「そうやっていつまでもいらいらしているがいいさ…」  第53 小節からのCoda はこの苛立ちに加えてヘミオラによる投げやりなV度I度の3 たびの繰り返し(それ自体倚音的な動きを伴う)を伴い、徒労への抵抗を表すようだが、調性自体が下属調と主調の組み合わせとなり(変終止の関係)、曲の終わりが近いことを匂わせる。「こんなことのくりかえし、くりかえし、くりかえし! もう疲れたよ!(しかし、それが人生というものだ!)

とりあえずのカデンツ(倚音を含まない)を挟んだのち、3 度および6 度の平行音程を伴ったこの苛立ちはしまいには3 回で止まずに配置を変えて5 回まで繰り返され、半音階とこの曲における唯一の減七(ベートーヴェンの曲であるのに!)をともなった救いのない全終止カデンツ(しつこく念を押すように倚音を含む)に至る。「まったくやってられるもんか! さあくれぐれもこんな茶番はおしまいにしよう! 」

その後coda で再び下属調のc-moll に転じるが、このc-moll の半終止が徐々にg-moll の変終止とオーバーラップしていく。4 度と5 度が表裏一体であることを確認しているかのように…「我々は生きることに何を求めているのか? 苦悩とは? 安息とは? 」生きることの矛盾が頭の中にこだまし、徐々にフェードアウトしていく。  その過程で幾度となくトラウマのようにxが繰り返され、ベートーヴェン特有の縮約により最後はxと6 度(または3度)平行する(C-H)のみが残される。

最後のカデンツにたどり着いて、結局のところ、トラウマa(特に上昇の否定であるxの部分)自体が、その徒労感のうちに、安息の祈りを象徴するピカルディー変終止を内包、暗示していたことに我々は気づくのである。「人生は、安息(死)へ向かう苦い徒労だからこそ、甘い祈りなのだ。」  音楽を含め、あらゆる「取るに足らない」物事の持つ「二面的な本質」にスポットを当てた佳曲ではなかろうか?

執筆者: 菊地 裕介