解説:林川 崇 (1338文字)
更新日:2026年10月13日
解説:林川 崇 (1338文字)
現代につながる西洋音楽の伝統が日本で始まった明治前期に欧米から訪れた音楽教師たちについて、十分な検証を得ないまま「本国では通用しない人が派遣された」かのように言及される例は現在でも見られる。勿論、中にはそうした人もいただろうが、ルドルフ・ディットリヒ(1861~1919)については、全く当てはまらないどころかウィーンでもトップクラスの音楽家であったことは疑いようがない。
ウィーン音楽院でヴァイオリンをヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(1855~1907、後にクライスラーやエネスクを指導する)に、理論とオルガンをブルックナーに学び優秀な成績を修めたディットリヒは、すでに日本に来る以前に、ハンス・リヒター(1843~1916)の指揮する演奏会でオルガン・パートを弾くことも少なくなく、その中には、ウィーン・フィルによるブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」の1888年稿(いわゆる「改訂版」。通常演奏されるのは1878/80年稿)の初演と同じ演奏会(1888年1月22日)での、ブルックナーの「テ・デウム」のオルガン担当というのもあった。
1888~94年にかけてディットリヒは東京音楽学校(現在の東京藝術大学)で指導に当たり、そこでのヴァイオリンの弟子には幸田延(1870~1946)と(後の安藤)幸(1878~1963)の姉妹など、オルガンの弟子には島崎赤太郎(1874~1933)などがいる。
ディットリヒは、ブルックナーに日本行きを報告した時のことを次のように回想している。
1888年に日本へ赴任することが決まった際、時間が限られていたため、私は音楽院まで行って、そこで出会った教授全員に挨拶をしなければならなかった。ブルックナーに「日本に行く」とほんの数語伝えただけで、彼はまるで私がペストにかかっているかのように、小走りにどんどん後ずさりし、
「どこへ行くの? 日本に、日本に? ごきげんよう!」
と興奮して言い続けた。その間に二人は10メートルほども離れたので、彼は握手をしようともしなかった。
1894年にオーストリアに帰国した後のディットリヒは、来日前から行っていたように、師のヘルメスベルガーたちとヴァイオリニストやヴィオリストとして室内楽を度々演奏する他、1901年にはウィーンの宮廷オルガニストとなり、ウィーン・フィルの演奏会において、フランツ・シャルク(1863~1931)やフェリックス・ワインガルトナー(1863~1942)などの指揮による宗教曲や、マーラーの交響曲第2番の作曲者指揮による演奏(1907年11月24日に行われたマーラーのウィーンでの最後の演奏会)にオルガンで参加している。また、もう一つのウィーンを代表するオーケストラ、ウィーン・コンツェルトフェライン管弦楽団(現在のウィーン交響楽団)の演奏会では、オルガン協奏曲のソリストなどを務めることもあり、中でも、1913年10月19日に、ウィーン・コンツェルトハウス大ホールのこけら落としにおいて、オルガン独奏、及びフェルディナント・レーヴェ(1865~1925)指揮によるリヒャルト・シュトラウスの「祝典前奏曲」Op.61の初演でのオルガン演奏を務めたことは特筆すべき事項であろう。
