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佐藤 敏直 1936-2002 Satoh, Toshinao

解説:小室 敬幸 (1440文字)

更新日:2018年4月25日

山形県鶴岡市に生まれる。一時、北樺太のオハ、東京の世田谷に引っ越すが、戦時中に疎開。 小学校2年生から高校までは生まれ故郷の鶴岡市で生活している。家には父が嗜んだヴァイオリンやピアノがあったが、佐藤を魅了したのは後者であった。中学校時代に出会った音楽教師・三井直(2017年に103歳で逝去)は鶴岡土曜会混声合唱団を設立した「鶴岡の合唱の母」とも称される人物で、佐藤にも多大な影響を与えている。

この頃から独学で創作活動をはじめていたが、慶應義塾大学工学部で電気工学を専攻中の1956年に、毎日新聞社と “コンセールf”(長門 美保、関種子、佐藤美子、四家文子)の共催による歌曲公募で落選したことが、作曲を本格的に学びだすきっかけとなった。知人だったテノー ル歌手・平間文寿(1900~1989)からの紹介で、作曲家・清瀬保二(1900~1981)に師事。清瀬はフォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、ムソルグスキー、バルトークを参照しつつ、日本風の 旋律やリズムを意識した作風で知られているが、佐藤もその影響下で創作を進めることにな る(1972年10月発売の雑誌『あんさんぶる』72号に掲載された「清瀬保二の音楽語法」という記事で、佐藤は師の作品を詳しく解説している)。

初期は、主にピアノを用いた作品を手がけ、 1959年の《ピアノのための三章》が第28回日本音楽コンクールの作曲部門第2部(室内楽曲) に入選(なお、同年のピアノ部門第1位は中村紘子であった)。その後は、室内楽、歌曲、合唱曲、オーケストラ曲と次第に様々な編成を手がけるようになっていく。1967年以降からは邦楽器のための作品を書くようになった。なかでも《ディヴェルティメント》(1969)は邦楽合奏曲の定番レパートリーとなった代表作の一つだ。 1970年代に入ると、作風に大きな変化が表れはじめる。《雪國のスケッチ》(1973)、《ピアノ淡彩画帖》(1977/79/86)といった作品で顕著なように、それまでには見られなかったような音数の多い不協和音やトーンクラスター、拍節感のないリズム、不確定性のある記譜が用いられるようになるのだ。これはストラヴィンスキー(特に1980年の《4手のためのディヴェルティメント》)やメシアン(同じく1992年の《鳥》)など、 師である清瀬が積極的に取り入れなかった作曲家にも触手を伸ばし始めたからであろう。

しかしながら、たとえ創作時期が被ってはいても、そうした新たな傾向は子ども向け作品においては稀にしか登場しない。1960年代からカワイ音楽教室の教材作成や講師の育成に携わっていた佐藤だが、1970年代末から《こどもはあそぶ》(1978)、《ちいさなパレット》(1979)、《ピアノのらくがき》(1984)と、子ども向けピアノ曲集の作曲・出版が相次いでいる。

一見相反するように思えるこの二つの傾向だが、音楽における色彩表現という共通点を持っている。音楽と色彩と言えば共感覚をもつメシアンが有名だが、極彩色とも表現されるビビッドな色あいの強いメシアンに対し、《ピアノ淡彩画帖》ではそのタイトルの通り淡色の表現に特色があり、それが佐藤独自の個性となっている。

2002年に急逝するまでの間に、日本音楽コンクール作曲部門審査員、日本現代音楽協会委員長、カワイ音楽企画音楽研究部長などの要職 を歴任。NHK邦楽技能者育成会や東京藝術大学などで、邦楽分野の演奏者育成にも力を注いだ。

執筆者: 小室 敬幸
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